第8話 蝕まれる境界線
ナイアルが去った後の静寂の中、サキはベッドの上で膝を抱え、指先をじっと見つめていた。
(……なんだったんだあいつ。ぶっちゃけ、男だった時の俺なら、あんなスカしたイケメンは、絶対に近寄りたくない、苦手なタイプだったんだけどな……)
元の世界の誠だった頃なら、間違いなく嫉妬と警戒の対象だったはずだ。
だが、性別を奪われ、言葉も通じない狂った異世界に突然放り込まれた今のサキにとっては、あのナイアルの飄々とした、境界線を感じさせない距離感のほうが、かえって奇妙なほど気楽に感じられた。
(いや、でも! 別に男が好きとか、そんなんじゃないからな!!)
サキは慌ててブンブンと首を振って、脳内の自分自身に猛烈に言い訳をした。
(当たり前だろ! 身体は変えられても、俺は中身は二十歳の健康な男子大学生だぞ! あいつに感謝してるのは、この世界で初めてまともに、親しげに話しかけてくれたからだ。おまけに魔法のコツまで教えてくれたからであって、変に身体を触ってきたりもしなかったし……そう、ただのビジネスフレンド、いや、一種のオタク友達みたいなもんだ!)
そう、自分に言い聞かせてフンスと鼻を鳴らした、その時だった。
「ずいぶん楽しそうね」
「げっ……!?」
心臓が跳ね上がるかと思った。
部屋の入り口に、いつの間にかユカリが立っていた。腕を組み、冷徹な瞳をさらに細めて、ベッドの上のサキをねめつけている。
「ユ、ユカリ……いつからそこに……」
「そんなにあの客が気に入ったの? ……ふん、もう身も心もすっかり『女の子』ね」
「バカ!ち、違う! 違う、そんなんじゃないからな!!」
サキはベッドから飛び起き、顔を真っ赤にして全力で否定した。
ユカリはそんなサキの過剰な反応を冷ややかに見つめながら、部屋の中へとゆっくり歩みを進めてくる。黒いドレスの裾が擦れる音が、妙に耳についた。
「そう。でもね、今のあなたは『身体だけ』が女性だけど、心もどんどん女性化していくのよ」
「……えっ!?」
サキの思考がピキリとフリーズした。今、この魔女は、何と言った?
「そんなの当たり前でしょ。あなたの身体全てに、私の魔法をかけて作り変えたのよ? 内分泌系も、脳の器質も、あなたは、全てが二十歳の完璧な女性。……ただ、心(魂)のほうは異世界(現代日本)のものだから、肉体の変化に追いつくのが少し遅れているだけ。これから時間をかけて、あなたの精神も、その身体に引きずられて女性になっていくわ」
「そ、それじゃ……俺の、これまでの記憶も……!?」
男だった頃の自分、日本での生活、アニメの思い出、親の顔――。
それすらも、魔法で書き換えられて消えてしまうのか。サキの背中に、ドッと冷たい汗が噴き出した。
ユカリはサキの絶望に満ちた表情を見ると、意地悪く、片方の口角を吊り上げて妖しく笑った。
「安心しなさい、記憶までは消えないわ。でも……物事の考え方や、感情の揺れ動き方は、完全に『女性』のものになっていく。……そうすれば、その可愛げのない生意気な態度も、もう少し大人しくなってくれるかしら?」
「く、くそ……! こいつ……っ!」
サキは屈辱と恐怖で奥歯を噛み締め、両拳をぎゅっと握りしめた。
どこまでも人を小馬鹿にした、この底意地の悪い魔女が、心底腹立たしかった。
男のプライドを、内側からジワジワと侵食されていくような、底知れない恐怖がサキの胸を支配する。
そんなサキの怒りを鼻で笑うように、ユカリは踵を返した。
「ふん。どうせ魔法の技術も、元の体力も、あなたは私には逆立ちしたって敵わないのよ。私に何か余計なことをしようとは思わないようにね」
ユカリは扉を開け、冷たく言い放つ。
「さあ、訓練を始めるわよ。ついてきなさい」
「……ちっ」
サキは小さく舌打ちをすると、ユカリの後に続いて部屋を出た。
薄暗い娼館の廊下、前を歩くユカリの背中を見つめる。
黒いドレスに包まれた、細くしなやかな背中。その細い腰のライン。
(……今、後ろから不意打ちで殴れば、倒せるか? いや、ダメだ。あいつのことだ、身体の周りに自動防御の魔法でも張ってるに決まってる。気づかれた瞬間、またあの光の鎖で拘束されて地獄を見るのがオチだ。クソ、ヤバすぎる……)
サキは内心で毒づきながら、ユカリの後頭部をこれでもかと激しく睨みつけ、大人しくその後ろ姿についていくしかなかった。
だが、サキはまだ知らない。
自分を案内するユカリの歩幅が、昨日よりも微かに狭く、その足取りが隠しきれない疲弊で、ほんのわずかに揺れていたことに――。
連れてこられたのは、娼館の地下にある、分厚い石壁に囲まれた頑丈ないつもの魔術訓練室だった。
湿った空気の中に、うっすらと古い魔術の残滓が漂っている。
ユカリは特訓場の中央まで進むと、振り返り、両手を腰に当てて傲然とサキを見下ろした。相変わらずの、完璧な上から目線だ。
「さあサキ。またいつものように、指先から魔法を出しなさい」
(ふん、命令すんじゃねえよクソ女。……でも、見てろよ。度肝を抜いてやるからな!)
サキは内心で毒づきながら、ナイアルに教わったイメージを即座に脳内で展開した。
もう、昨日までのサキではない。
胸の奥に眠る混沌の魔力――『アザトースのマナ』。それを力任せに絞り込むのではなく、まずは頭の中に細い魔女回路を無数に、網の目のように開く。
そして、その中の一本だけを残して、残りのスイッチを全て、一斉にシャットダウンする!
魔女回路の、並列遮断――!
バチバチバチバチッ!!!
サキの突き出した人差し指の先端から、昨日ナイアルの前で見せたのと同じ、鮮烈な紫色の火花が勢いよく飛び散った。空間をピりつかせる、明らかな電撃の波動。
昨日までの「五歳児の火花」とは、出力も安定性も天と地ほどの差があった。
「どうだ……!」
サキは勝ち誇った笑みを浮かべ、ユカリの顔をまともに見据えた。
驚け、そして自分の才能を認めろ、と心の中で叫びながら。
しかし、ユカリは腕を組んだまま、はぁ〜……と、心底退屈そうに深い溜息を吐き出した。
「やっとコツを掴んだのね。まあ、愚図なあなたにしては、まずまずの火花ね」
「こ、この……クソ女……っ!!」
その一言で、サキの脳内の血管がブチ切れた。
三ヶ月の地獄のような努力。環境に適応するために必死に掴んだ最高の成果を、またしても「まずまず」の一言で片付けられた屈辱。
ユカリが、サキの指先からほんの一瞬、視線を外した。
その瞬間、サキの理性が完全に吹き飛んだ。
(くそ、なめやがって……! ちょっとは痛い目見やがれ!!)
サキは指先に残った全ての魔力を乗せ、ユカリの顔面に向けて、その紫色の火花を思い切り放出した。
「食らえ……っ!!」
一閃。紫の電撃が、まっすぐにユカリへと襲いかかる。
やった、直撃する――そう思った、次の瞬間だった。
ユカリの手前、わずか数十センチの空間に、目に見えないほど細い、蜘蛛の巣のような禍々しい光の膜がパッと硬質に輝いた。
「え……?」
バチバチバチバチバチバチッッッ!!!!
「ぎゃああああああああーーーーーーーッ!?」
放たれた紫の電撃は、その蜘蛛の巣の膜――『蜘蛛の魔女の織糸(アトラク=ナクアのシールド)』に触れた瞬間、威力を数倍に増幅され、狂暴な雷蛇となってサキ自身へと跳ね返ってきた。
自分の放った電撃が、さらに巨大になって直撃する。サキの華奢な身体が激しく感電し、骨の輪郭が透けるほどの衝撃と共に、特訓場の端の石壁まで吹っ飛んで無様に転がった。
「うう……あ、がが、が……っ」
髪を逆立て、全身から煙を吹きそうになりながら、涙目で床に這いつくばるサキ。
あまりの激痛と衝撃に、指一本動かすこともできない。
そんな哀れなサキを、ユカリは憐れみの欠片もない冷徹な目で見下ろし、はぁ、と本日一番の大きな溜息を吐いた。
「本当に……あなたは馬鹿なのね」
「つ、つつううう……っ」
「私がシールドを張っていないとでも思ったの? あなたのような素人が、後ろからいつ襲ってくるかも分からないのに、それくらい想像しなさい。大馬鹿者」
ユカリの冷たい声が、特訓場に虚しく響く。
「い、痛え……、クソ、冷てえよ、床……悔しい……」
サキは涙をボロボロと流しながら、痺れる身体で床を這いまわった。
不意打ちで一矢報いるどころか、自分の攻撃を何倍にもされて自爆しただけだった。
これでは蜘蛛の巣に引っかかって、勝手にもがいて自滅した羽虫と同じだ。
そんなサキの無様な姿に、ユカリは冷たく言い放つ。
「元から馬鹿だとは思っていたけれど、ここまで救いようのない大馬鹿者だったとはね。……本当にあなたは馬鹿なのね、ふふっ、笑えちゃうわ」
「ぐっ……!くそ……」
何度もリピートされる「馬鹿」の言葉が、サキの胸に突き刺さる。
悔しくて、恥ずかしくて、顔が火を噴きそうに熱い。
しかし、サキには見えなかった。
「本当に、あなたは馬鹿ね」と言い捨てながら、そっと額に手をやって目を閉じたユカリの指先が、微かに震えていたことを。
そして、数倍に増幅して跳ね返したとはいえ、サキの放ったアザトースのマナを内包した一撃を受け止めたユカリのシールドが、実はほんの少し傷ついた、という恐るべき事実に。
(この子……、たった一日で、ここまでマナの性質を変化させたというの……!?)
ユカリは冷徹な仮面の下で、サキの異常な成長速度に、激しい驚愕と――数字の残されていない自身の命の焦燥に、胸を締め付けられていたのだった。
「さあ、いつまで床で寝ているの。起きなさい、五歳児。まあ、少しは成長したから六歳児にしてあげるわ。感謝しなさい。……訓練は、まだ始まったばかりよ」
表面上はドS魔女ですが、まだまだユカリには隠された謎があります。
今後、明らかにしていく予定です。
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