第6話 五歳児の火花
地下室でのあの屈辱的な対峙から、数時間後。
サキは、ユカリによってあてがわれた狭い自室のベッドの上で、一人あぐらをかいて座っていた。
部屋には小さな木製の机と、固いベッド、そして申し訳程度の明かりが灯るランプがあるだけだ。
窓の外は眼下に、魔女都市『ルルイエ』の、退廃的な紫色の夜が妖しく広がっている。
(クソッ……、あの女……!)
サキは自分の細い右手を目の前に掲げ、じっと見つめた。
昼間、ユカリに無理やり唇を重ねられた時の感覚が、まだ生々しく残っている。体内の奥底から、ドロドロとした熱い何かが、ユカリに向かって強引に引きずり出されていくような、あの恐怖と不快感が混ざり合った、おぞましい感覚。
ユカリは言った。――『死に物狂いで私の魔法を盗みなさい』と。
(あいつをぶっ潰して、この地獄の娼館から絶対に這い上がってやる。そのためには……やるしかねえんだ。どんなに厳しくとも、あの女の魔法を盗んで、自分の力にするしか……!その後で、あいつに何倍にもして、返してやる!それから、この世界をぶっ潰して、男に戻って日本に帰るんだ!まずは……)
サキは目を閉じ、自身の内側へと意識を向けた。
アニオタだった誠の知識が、頭の中でフル回転する。漫画やアニメでよくある『魔力コントロール』の基本。体内のエネルギーを循環させ、それを一点に集中させるイメージ。
意識を集中すると、確かに自分の胸の奥に、恐ろしいほど膨大で、底の知れない『何か』が眠っているのが分かった。
これが、ユカリの言っていた、世界を滅ぼす混沌の魔力――『アザトースのマナ』なのか。
だが、それはあまりにも巨大で、あまりにも凶暴だった。
少しでも触れようとすると、津波のような圧倒的なエネルギーがサキの精神を飲み込もうと暴れ出す。
自分の体内に違う生命体がいる様な不快感。
うっかり全力を引き出せば、一瞬で体内のマナが『陰』へと反転し、自分自身の肉体を内側から木っ端微塵に爆破してしまうだろう。
(落ち着け……。一気に出しちゃダメだ。アニメで見たろ、エネルギーの流体制御だ。ダムの決壊じゃなくて、水道の蛇口をほんの少しだけ、分子レベルで緩めるみたいに……細く、細く……!)
サキは額にびっしょりと汗をかきながら、右手のひとさし指の先端に意識を尖らせた。
胸の奥の巨大なエネルギーの海から、髪の毛よりも細い、一本の糸を引っ張り出してくるようなイメージ。
「……くっ、うあ、あ……!」
指先が、カカカカと激しく痙攣する。
ほんのわずかでも意識がブレれば、一気に出力が増して腕が消し飛びそうになる。
サキは恐怖に歯を縛り付けながら、必死に『蛇口』を締め直した。
パチ、と小さな音がして、指先が熱くなった。
「熱っ!!痛てて……」
だが、それだけだ。光が灯ることも、炎が宿ることもなく、ただサキの指の皮膚が真っ赤に変色し、熱傷の痛みが走っただけだった。
「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ……!これだけで、何でこんなに疲れるんだよ……」
サキはベッドの上に大の字に倒れ込み、激しく息を荒げた。たった数分の集中で、全身の骨が軋むほどの疲労感が襲ってくる。
(全然……制御できねえ……。出力を絞るだけで、死にそうになる……。何が最強のマナだ、こんなの暴発寸前の爆弾を抱えてるのと同じじゃねえか……っ。本当に魔法なんて使える様になるのか……?あいつにやり返してやれるのか……)
涙が滲む目で天井を見つめる。
だが、サキは諦めなかった。ここで諦めれば、待っているのは男たちの苗床になる未来だけだ。
日本の実家で、今頃自分の失踪を悲しんでいるであろう両親の顔が浮かぶ。
(絶対に、帰るんだ。こんなところで、終われるかよ……!)
サキの、血の滲むような孤独な戦いが始まった。
――それからの日々は、地獄のような試行錯誤の連続だった。
一日、一週間、一ヶ月。
サキは、娼館の倉庫番や雑用といった過酷な労働の合間、そして夜のわずかな睡眠時間を削って、狂ったように指先への魔力集中を繰り返した。
オタクとしての知識から、ありとあらゆるラノベ、アニメからの、「魔法のイメージ法」を試した。
魔法陣の構築、ベクトルの反転、毛細血管への魔力循環、エネルギーの波形コントロール――。
何度も失敗し、指先の皮膚が焼け焦げ、水膨れになり、そのたびに痛みに耐えながら、サキは感覚を研ぎ澄ませていった。
自分の華奢な身体を、アザトースのマナという極大の燃料に、ミリ単位で適合させていく。
そして、元の世界から召喚されて、ちょうど三ヶ月が経った、ある日の夜のことだった。
いつものようにベッドの上で精神を極限まで集中させていたサキの、人差し指の先端。
チリ……、チリ……。
空間が微かに歪み、サキの指先から、本当に小さな、針の先ほどの大きさをした『赤黒い火花』が、パチパチと音を立てて爆ぜた。
「……あ」
それはほんの数秒で消えてしまう、か弱い輝きだった。
だが、確かにサキ自身の意志で、体内のマナを肉体を破壊せずに外部へと出力した、初めての『魔法』の片鱗だった。
「やったー!!できた……。できたぞ……っ!よっしゃー!」
サキは赤くなった指先を見つめ、震える声で歓喜した。
三ヶ月間、一日も欠かさず血反吐を吐くような思いで特訓を続け、ようやく掴み取った成果だ。
嬉しさのあまり、誠としての男のプライドも忘れ、少女の身体で小さく飛び跳ねて喜んだ。
「何がそんなに嬉しいのかしら?」
「ひっ!」
冷徹な、鈴の鳴るような声が部屋に響いた。
サキがハッと振り返ると、いつの間にか部屋の扉が開いており、そこに黒いドレスを纏ったユカリが佇んでいた。
相変わらず、感情の読めない冷たい瞳でサキを見下ろしている。
「ユカリ……!」
サキは勝ち誇ったように、まだ熱を持った人差し指をユカリへと向けた。
「見たかよ! あんたに言われなくたって、俺は魔法を使えるようになった! 今、確かにこの指先から火花が出たんだ!」
ユカリの鼻を明かしてやった。サキはそう確信して、ふんと胸を張った。
しかし、ユカリの表情は、ピクリとも動かなかった。
彼女はサキの指先を一瞥すると、酷く退屈そうに、深い溜息を吐き出した。
「はぁ〜?そんなハエの羽ばたきのような火花で、随分と大層な口を利くのね」
「なんだと……っ!?」
「この世界ではね、そんな微々たる火花、五歳の女の子でも路地裏で出して遊んでいるわよ」
「へ……五歳……?」
ユカリは冷酷な言葉を、容赦なくサキの胸へと突き刺した。
「三ヶ月もかけて、死にそうな顔をして、ようやく五歳児レベルのスタートラインに並んだの。それがあなたの『成果』? 笑わせないでちょうだい。そんなお遊び、ハイパーボリアの魔導兵器が一睨みすれば、あなたごと塵に変わるわ」
「な……っ、そ、そんな……」
サキの顔から、一気に血の気が引いていく。
三ヶ月の血の滲むような努力を、一瞬で「五歳児のお遊び」と切り捨てられた屈辱。
あまりの言葉の冷たさに、全身が激しく怒りと絶望で震えた。
「い、生き延びたければ魔法を盗めと言ったのは、あんただろ……!」
「ええ、言ったわ。だからこそ、その程度の遅すぎる歩みに呆れているのよ」
ユカリは冷たく言い放つと、サキに背を向けた。
「三ヶ月で火花、一年で花火かしら?」
それだけを残し、ユカリは部屋の扉を閉めて去っていった。
「クソッ……! クソッタレが……っ!!ふざけやがって!こんな世界、もう嫌だ!」
サキはベッドに拳を叩きつけ、悔し涙をボロボロと流した。
だが、立ち去るユカリの、衣服に隠された胸元が、激しく上下に波打っていたことに――
そして、扉を閉めた直後、彼女が口元を必死に押さえ、誰にも聞こえないように小さな咳を漏らしていたことに、サキが気づくことはなかった。
厳しいユカリの言葉、でもこれにはちゃんと理由があるのです。
そういったことも含め、徐々にこの世界の謎を明かしていきたいと思います。
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