第50話 魔術と、呪い
これ以上の不測の事態は、サキの魔女化を滞らせるだけでなく、この地における魔女たちの基盤をも揺るがしかねない。
しかも深階第2位のウルが眠っている今、ハイパーボリアが動き出せばまずいことになる。
ユカリは自室である薄暗く、洗練された執務室へと入ると、大きな黒塗りの机の前に立ち、空間に向けて静かに命じた。
「エルダ。今すぐ、私の部屋に来てくれるかしら」
マナを特定の個人へと直接飛ばす、極めて秘匿性の高い呼び出しの術。
それから、数分ほどの静寂が部屋を支配した頃。
重厚な黒檀の扉が、規律正しく、かつ慎重な音でトントントンとノックされた。
「ユカリ様。エルダーサインです。お呼び出しにより、参上いたしました」
扉の向こうから、凛とした、どこか生真面目な少女の声が響く。
「エルダ、入って」
ユカリが静かに許可を与えると、音もなく扉が開き、一人の魔女がゆっくりと室内に足を踏み入れた。
「失礼いたします、ユカリ様」
入ってきたのは、頭の左右から羊のようにクルンと丸まった、艶やかな黒い一対のツノを生やした少女だった。
髪はシルクのように滑らかで美しい銀色をしており、端正に切り揃えられたショートボブが、彼女の小柄で整った小顔を際立たせている。
その白磁の肌に映える紫色の瞳は、爬虫類のように縦長に裂けた細い瞳孔を宿しており、人間とは一線を画す「高位の異形」としての美しさを冷ややかに放っていた。
彼女こそが、カルコサの「絶対防御」の一翼を担う、旧神の印を司る魔女――深階第8位の魔女エルダであった。
「ありがとう、エルダ。……通信魔法を使うことも考えたのだけれど、万が一にでも敵に通信を傍受されるようなことがあってはいけないから。わざわざ直接、足を運ばせてしまって、ごめんなさいね」
ユカリが労いの言葉をかけると、エルダは銀髪のショートボブを僅かに揺らし、表情を崩すことなく粛々と一礼した。
「滅相もございません。ユカリ様のご命令とあらば、いついかなる時であっても馳せ参じるのが私の役目です。……それで、お話というのは、あのサキという異世界人の件でしょうか?」
「ええ、その通りよ」
ユカリは机に軽く腰を掛け、真剣な眼差しをエルダへと向けた。
「ここ最近、立て続けにサキの命を狙った、ハイパーボリアの刺客たちがこの城塞の内部にまで侵入して来たのは、あなたも当然知っているわよね?」
その問いに対し、エルダは爬虫類のような縦長の瞳孔を一瞬だけ痛ましげに細めると、青いワンピースの胸元に刻まれた「木の葉型の星紋」を握りしめ、その場でユカリに対して深々と頭を下げた。
「はい。……重々承知しております。この城塞全体の防衛、およびユカリ様のお膝元を護る魔除けの加護は、この私が統括しております。それにも関わらず、私の防御の加護を以てしても、奴らの接近や侵入を事前に入口で感知することすら出来ませんでした。……ユカリ様、私の防衛の至らなさ、完全に私の落ち度です。弁解の余地もございません。いかなる処分をも受ける覚悟です」
悔しさと忠義の入り混じったエルダの謝罪。
しかし、ユカリは小さく首を横に振り、その厳格な魔女を優しく見つめた。
「いいのよ、エルダ。顔を上げなさい。あなたを責める気など、私は全くないから。あなたのエルダーサインによる魔除けの防壁が、このカルコサにおいて最も強固で完璧な防衛機構であることは、私が誰よりもよく知っているわ。私が聞きたいのは、責任追及などではないの。あなたのその絶対的な加護を『すり抜けて』、どうして奴らがこの場所に侵入できたのか、防衛の専門家としてのあなたの個人的な意見を聞きたいのよ」
ユカリの信頼に満ちた言葉に、エルダは小さく息を呑み、ゆっくりと頭を上げた。
そして、その聡明な紫色の瞳に深い沈思の色を浮かべながら、慎重に自身の見解を口にした。
「……私の防壁の術式は、物理的な破壊や、あらゆる属性の魔術による『外側からの突破』に対しては、それこそ第一級の神性魔法であっても完全に遮断します。それが探知すらされずに突破されたとなると、考えられる理由はただ一つしかありません。……恐らく奴らは、城塞の外から中へと移動したのではない。……空間そのものを曲げ、歪めることで、防壁の『外』と『内』を直接繋げて侵入しているのではないでしょうか。つまり、空間湾曲の術式です」
「――空間を、曲げて……?」
エルダの言葉に、ユカリは珍しく目を見開き、息を呑んだ。 その冷徹な美貌に、隠しきれない驚愕と、深い疑惑の影が差していく。
「そんな……。ハイパーボリアの、あの時代遅れの狂信者どもが……次元を操作し、空間そのものを歪めるような、そんな第一級の高位魔法を扱えるはずが……。一体、誰が彼らにそんな知識と魔力を与えているというの。やはり……」
「可能性の問題ですが、魔術でなければ呪いが考えられます。ただ、皇国のニャルラトホテプは、これまで呪いを扱ったことはありません。そうすると、奴が呪いを扱える様になったのか、もしくは、他に呪いを扱える術者がいるのかも……?」
「奴が呪いまで扱える様になると厄介よね……呪いを扱える術者がいる可能性があるというのもいい話ではないし、気になるわね」
二人の魔女が立つ薄暗い部屋に、魔女都市ルルイエの根底を揺るがしかねない、不穏で巨大な謎の気配がじわじわと満ちていった。
今回、『呪い』という言葉が出てきました。
魔術と同じマナを消費する力ですが、魔法とはまた違ったものです。
今後重要な展開がありますので、しばらくお待ちください。




