第32話 私
邪神と呼ばれるニャルラトホテプ――そのおぞましい名前と、元の世界の人々を消耗品として磨り潰す魔導兵器の真実を知ったサキの胸には、かつてない激しい憤怒と、這い上がるための強固な決意が満ち満ちていた。
そのサキの様子を見て、ユカリはフッと冷徹な、けれどどこか満足げな笑みを浮かべ、長い髪をかき上げた。
「さあ、サキ。いつまでも感傷に浸っている暇はないわよ。さっそく、あなたのその無駄に巨大な器を強引にこじ開ける、地獄の訓練を始めるわよ!」
「よっしゃー!」
ユカリの冷酷な宣言に対して、サキは怯むどころか、自らの両拳を顔の前で強く打ち鳴らし、大声を張り上げた。
「これからの私は、これまでとは一味も二味も違うぞ! 見てろよ、ユカリ様! 絶対にへこたれずに、あんたのシゴキに耐え抜いてみせるからな!」
気炎を吐き、これまでにないほど前向きにポーズを決めたサキ。
しかし、その威勢の良い叫び声が玄関ホールに響き渡った直後、ユカリの動きがピタリと止まった。
ユカリは細い眉をこれ以上ないほど不審げにひそめ、じっとサキの顔を凝視した。
「私…………?」
「え?」
ユカリの低く地を幾うような声に、サキは打ったポーズのまま固まった。
「サキ、あなた……今、自分のことを『私』って言わなかったかしら? あなた、今まで頑なに自分のことを何て呼んでいたかしら……?」
ユカリの冷徹な眼差しに冷や汗がドッと溢れ出る。
サキは「あ……、そ、それは……」と言葉を詰まらせ、思わず自分の口を手で押さえた。
現代日本で男として生きていたサキは、TS美少女にされてカルコサへ連れてこられてからも、男としての最後のプライドを守るために頑なに「俺」という一人称を使い続けていたはずだった。
それなのに、今の勢いに任せた叫びの中で、あまりにも自然に「私」という言葉が滑り出てしまったのだ。
「あら、もうこの可愛い女の子の身体に、精神まで順応し始めているの? あんなに『俺は男だ』って突っぱねていたのに、なかなか可愛いところがあるじゃない」
ユカリが容赦なくジリジリと距離を詰めてくる。サキは顔を真っ赤に染めながら、必死に手を振って弁明した。
「ち、違うぞ! こ、これは……今のは、ただの言い間違いっていうか、その、お、俺の口が滑っただけで……っ!」
「ふふ、サキはもう私の言うことを聞いて、大人しく可愛い女の子になるって決めたんだもんね〜?」
その時、ホールの影からひょっこりと顔を出したアザレアが、ニヤニヤとした意地の悪い笑みを浮かべながらサキの肩を抱き寄せた。
「ア、アザレア……っ!?」
「ユカリ様、聞いてよ〜。こいつったら、私のことが相当お気に入りみたいでさ〜。私が前に、その可愛い顔で『俺』なんて乱暴な一人称は似合わないから、大人しく『私』って言いなよ〜、ってからかったら、健気にも裏でちゃんと直してきたんだよね〜?」
「ぐっ……! ち、違う! お前が無理やり変な術をかけたわけでもないのに、そんなわけあるか! も、もういいだろ、その話はっ!」
サキは顔から火が出そうなほどの恥ずかしさに耐えかね、アザレアの腕を振りほどこうと暴れた。
しかし、アザレアはそんなサキの抵抗を軽くいなしながら、「あれ〜? 顔真っ赤にして、照れちゃってるの〜?まあ、アザレアちゃんは美人だもんね〜サキちゃんが私を好きになっちゃうのも、しょうがないよね〜」とさらに顔を覗き込んでくる。
「そ、そんな事あるか!! 誰が誰に照れるんだよっ!誰が好きになるんだよっ!」
サキが真っ赤になって怒鳴り散らしていると、今度はユカリの横から、ふよふよと青黒い触手を揺らしながらクティラが近づいてきた。
クティラは大きな瞳をパチパチと瞬かせながら、サキのスカートの裾をちょんちょんと引っ張る。
「サキちゃん、お顔真っ赤……照れてる?」
「クティラ! ち、違うんだよ! お前まで、アザレアのくだらない、からかいに乗っかるなよなっ!」
「え〜?本当〜?」
サキが必死にクティラに向かって両手を振って否定していると、それまで黙ってその光景を見ていたユカリの周囲の空気が、急激に冷え込んでいくのが分かった。
ユカリは腕を組み、冷たいジト目をサキへと向けて、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ふ〜ん……。私とウルがハイパーボリアとの戦線で命懸けの立ち回りを演じて、挙句の果てに、ウルが大変な状態で戻ってきたっていうのに……留守中の館で、随分と仲良く女の子同士で、いちゃついていたのね……。 いいご身分なのね、サキは」
ユカリの放つ圧倒的な上位魔女のプレッシャーに、サキの背筋に極寒の戦慄が走った。
アザレアのからかいとは比較にならない、本物の「お仕置き」の一歩手前の空気だ。
「ユ、ユカリ! 違うんだよ! そういうわけじゃなくて、アザレアが勝手に有る事無い事言ってるだけで……!」
「様は?」
「あ、ユカリ様。特訓とかも、アザレアと、しっかりとやってましたよ!あとさっきも、ウルちゃんや、ユカリ様の留守を狙って、本当にヤバい刺客が来て、私とクティラで死に物狂いで戦って大変だったって、言ったばかりじゃないですか!」
サキは慌てて「私」という一人称を(今度はユカリの機嫌を取るために必死に)使いながら、廊下での激戦の事実をアピールした。
ユカリはしばらくサキの必死な言い訳を聞いていたが、やがてフッとため息をつき、冷たい笑みをその美しい唇に戻した。
「まあ、そういうことにしておくわ。……けれど、それだけここで、アザレアたちと楽しい時間を過ごせたのだから、これから始まる器の拡張訓練は、それ相応の覚悟をしておくことね」
「は、はい……」
ユカリの底冷えするような声に、サキは完全に気圧され、小さくなって返事をするしかなかった。
アザレアは後ろでクスクスと笑い、クティラは不思議そうにサキを見上げている。
無意識に身体へ順応し始めていた一人称。
その代償として待ち受けるユカリの訓練が、どれほど苛烈なものになるのか――サキは冷や汗を流しながら、カルコサの地下にある、重厚な魔術訓練室へと足を進めるのだった。
「さあ、サキ。ここからが本当の地獄よ。覚悟は出来ているかしら?」
ユカリの冷徹な声が、地下深くにある重厚な訓練室の石壁に反響した。
アザレアは地上で眠り続けるウルの防衛と容態管理に張り付いているため、この地下へは、護衛を兼ねたクティラがサキの後ろをふよふよとついてきていた。
「サキちゃん、がんばって。ツラかったら、クティラの触手、ふにふにしていいよ」
クティラは心配そうに青黒い触手を揺らし、サキの服の袖をそっと引いた。
ユカリの部下であるクティラにとっても、これから行われる「器の拡張」がどれほど冒涜的で肉体に負荷をかけるものか、本能的に理解しているのだろう。
「ありがとう、クティラ。……大丈夫、私はもう覚悟を決めたんだ」
サキはクティラに小さく微笑み返すと、意を決して中央の魔術陣へと一歩を踏み出し、ユカリの正面に立った。
冷たい石床から伝わる冷気が、サキの華奢な足元から全身へと伝わっていく。
TS美少女にされたこの身体は、男だった頃に比べて遥かに繊細で、傷つきやすい。
それでも、内に秘めた規格外のマナの熱だけは、サキの胸の奥で確かに燻っていた。
「そろそろ始めましょうか」
ユカリは冷ややかに微笑むと、その美しい両手をサキの胸元へと向けた。
厳しい特訓が始まります。
サキは、どれだけ成長できるのでしょうか?




