第7章 3
大学のゼミが夕方に終わったその日、セルギーの兄マリクはコーリャの店に立ち寄った。普段は従兄弟が貰ってくる余り物のパンを頂戴しているが、時々店に買いに行く。コーリャは大抵レジを打つか併設されたカフェに飲み物を運んでいて、マリクが声をかけるとにっこり笑って指で合図してみせる。
ところが、この日は違った。
コーリャの姿が見えない。そのせいか、店員がいつもより忙しく立ち働いているように見える。工場の方で作業しているのかもしれない。
レジに菓子パンを持って行き、会計を済ませた。従兄弟がいるはずだというあてが外れ、少し物足りなかった。だが、相手をする店員も顔見知りの男だ。
「コーリャは奥にいますか?」
マリクが何気なく尋ねると、店員はふと顔をしかめた。予期せぬ反応に戸惑った。
「あの子は辞めたよ。ついさっきね」
「え?」
「何かあったのか聞いてる? 忙しくてもう来れないって、本人は言っていたけれど……」
初耳だ。帰り道で齧るジャムパンは少し甘ったる過ぎる気がした。
「__お帰り」
どたどたと荒い足音を響かせて飛び込んできたマリクを、コーリャの伯母は驚きを以て迎えた。大学生の息子は紙の袋をぐしゃぐしゃに握りしめ、開口一番母親に聞いた。
「コーリャはいる?」
「台所に」
「そっか」
マリクの勢いが萎むのが目に見えるようだった。
「どうかしたの? あんたたち、揃いも揃って」
「いや……何でもないよ。……あんたたち?」
伯母はひょいと眉を上げた。
「帰ってくるなりコーリャを心配していたのは、セルギーもよ」
伯母の背後の台所からは、コーリャが包丁を振るう単調な音が聞こえてくる。早く帰ってきたコーリャはいつものように自ら手伝いを申し出た。彼はこの家の中で、伯母の次に料理が好きなようだ。伯母にとってこれは嬉しいことだった。今までは、男どもに作って食わせるだけだったから。
「コーリャに何か変わりはない?」
「変なことを聞くね。毎日顔を合わせているのに」
「そりゃあそうだけどさあ」
だが、ぶつぶつ言いながらマリクが自室に引っ込んだ後、伯母はコーリャをこっそり観察した。野菜を刻んだ後は、慣れた手際で鍋に落とし、トマトとビーツをじっくり煮込む。湯気の立つ鍋をコーリャはぼんやりと眺めている。
「コーリャ?」
「伯母さん」
コーリャは素直に返事をした。少しほっとする。息子たちにあてられて、密かに案じていたのだ。
「どうかしたの?」
コーリャは首を傾げて問いかけた。邪気のない瞳を伯母は信じることにした。
「何でもないよ」
彼女の返事を聞くと、コーリャはふいと鍋に視線を戻した。会話はもう終わりとばかりに。だから、彼が呟くように続けた時、伯母は驚いた。
「僕がうちに来てから、大変だったでしょ」
何故急にそんなことを言う。鍋をかき混ぜるコーリャは冷たい真顔を装っているが、ひっきりなしに瞬きを繰り返し、そわそわと指の先を動かしている。脈絡が無い質問だが、ずっと聞きたかったのだろう。感傷的で意味のない問答だ。何故なら答えは既にわかりきっている。
「そんな風に思ったことはないよ。私も皆も、コーリャのことが大好きだから」
「それは、僕が親戚だから?」
「違う。あなたがコーリャだからだよ」
まだ野菜も十分に煮えていないのに、コーリャは火を止めた。尚立ちのぼる湯気が、可愛い甥っ子の白い顔を奇妙に歪めて見せた。
「どういう意味?」
何の気なしに口にした言葉を真剣に受け止められると、心が縮む。罪悪感で舌が回らなくなる。だけど、甥はそれなりの期待をかけて待っている。
「血がつながっていてもいなくても、私たちはコーリャの家族。マリクやセルギーと同じ、愛しい息子だと思っている__確かに、あんたのことを知れたのは私たちが親戚同士だったからかもしれない。でも、誰よりもあんたが頑張っていることを知っているから、私はあんたを信頼しているし、後ろ盾になってあげたい」
コーリャは黙って聞いていた。伯母が口を閉じると、ガスを再び点火した。たっぷり五分は経ってから、背を向けた彼がようやく音をたてて息を吸った。
「ありがと、伯母さん」
「いいえ」
子どもらしい照れ隠しに、伯母の口元はほころんだ。だが、次の言葉で再び彼女は固まった。
「母さんが、伯母さんみたいな人だったら良かったのに」
無邪気な比較が伯母の後ろめたさを刺激する。美しかった義妹を傷つけた悲劇を知っているから、彼女は甥っ子に賛同できない。
コーリャが母親にひどく疎まれ、まともな会話すらずっと交わしてこなかったことはよく知っていた。だが、彼女が自ら命を絶つまで、誰も彼女を救えなかった。
コーリャは可愛い。だが、彼が息をするたび、母親はあの獣のようなロシア人兵を思い出す。自分とそっくりな顔をした少年の、少しでも自分と違う部分に、おぞましい影を見つけ出す。今は素直で健気なコーリャが、いつしか女の心を蟻のように踏み潰す男になるのではないかと不安になる。
コーリャの母親が息子について話す時、いつも同じことしか言わなかった。誰も決して話題に出さないようにしている男の気配を、彼女は息子を通してあぶり出した。
静かな夕食が終わると、コーリャはさっさと自室に引っ込んだ。マリクが案じ、セルギーも眉をひそめたが、伯父は放っておけと言った。どんな子だって悩むことはある。あの子が相談してきたら、聞いてやればいい。
コーリャがアルバイトを辞めたと伯母が知ったのは、それから二日後のことだった。マリクが教えてくれたのだ。彼は、コーリャが相変わらず遅い時間に帰ってくることを不審がっていた。日が暮れてから帰ってきたコーリャを問い質すと、彼は何でもない顔で部活の見学に行っていたのだと答えたが。
そしてその翌日、コーリャは学校から帰ってこなかった。
学校に電話をすると、終業後すぐ教室から出て行ったとの返答があった。そこから先は教師も知らない。街を女の子と歩いていたという目撃情報もあった。それを聞いたセルギーが青ざめたが、特に何も言おうとしなかった。
警察に通報するのが遅れたのは、郵便箱に彼からの手紙と電源が入っていない携帯が入っていたからだ。手紙には『友達と2、3日遊びに行きます。心配しないでください』と書かれていた。
手紙の内容とは裏腹に、コーリャが戻ってくることはなかった。




