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第8章 旅立つ二人

 賑やかなルハンシク駅の構内。モルタルの壁に寄りかかる二人組の少年少女を気に留める通行人は一人もいない。少年は参考書に目を落とししきりとぶつぶつ呟いている。傍らでコーヒーを啜る少女は時折隣の彼に横目を流す。言うまでもなく、コーリャとマリヤである。自分たちの住まいから五十キロも離れた北東の街に電車で辿り着いて、誰かを待っている。まだ厳しい寒さを防ぐため、そして顔を隠すためにコーリャはマフラーを顔にぐるぐる巻きつける。息苦しさと引き替えに顔半分が覆われ、さらに今し方買った帽子をしっかり被れば、誰もコーリャに気づかない。


 それでも、胸が緊張で高鳴った。


 __僕は今、二重に悪いことをしようとしている。


 誰にも告げずに家出した罪悪感と、伯父一家に会えない寂しさがコーリャの喉を締めつける。


 彼の側にぴたりと寄り添うマリヤが、真面目な顔で囁いた。

「もうちょっと落ち着け。びくびくしていたら人目につく」

 がちがちにこわばっていた少年の顔がその時少しだけ緩んだ。

「だって仕方がないじゃんか……こんなことするの初めてだもん」

 コーリャは紫の印影が残る切符を軽く振ってみせた。電車をいくつも乗り継いで知らない街に行くのも、相棒が年上の女の子であることも……全てが新鮮だ。楽しむ余裕はまだ彼にない。いつ警官に目をつけられ、補導されるかと怖がっている。

「箱入り息子過ぎ」

「外出禁止娘のクセに」

 マリヤがコーリャをじろりと睨んだ。

「もう、親のくだらない命令なんて何の意味もないね」

「家に帰ったらこっぴどく叱られるんだろうけど」

「家に帰ったら? おめでたいね。あたしはもう二度とあそこに戻りたくない。息が詰まって死にそうだった」

 コーリャは眉を少ししかめた。マリヤとの旅が終わったら、伯父たちの家に帰るつもりだったからだ。

 モスクワへ行こう。そう言い出したマリヤは、どんどん具体的な計画を詰める割には、旅の目的を聞かせてはくれなかった。ロシアに入るまでの交通手段や警察の目のごまかし方を話し合う間に、コーリャもだんだんとマリヤに聞こうと思っていたのを忘れていった。

 二人が住んでいた町の最寄りのマリウポリ駅からドネツク鉄道線で州をまたいで、ルハンシク市の地下鉄駅に降りた。特急列車を使うよりは地下鉄とバスを乗り継いだ方がよほど安上がりだ。丸二日かけて、やっと駅から駅への梯子は一応の区切りがついた。午後10時過ぎのルハンシク駅は人もまばらだ。この駅でコーリャの知り合いと待ち合わせをする約束をとりつけていた。

 10時半を過ぎると、マリヤが構内の時計をそわそわと見上げた。

「そいつに連絡はちゃんとしたんだろうね?」

「何回同じこと聞くのさ。ばっちり返事も貰ったし、履歴も消した」

「ならいいけど……」

「もうちょっと落ち着きなよ、マリヤ」

 さっき言われたことを返してやると、マリヤは口をひん曲げて笑う。

「生意気言うようになったじゃない」

「口が悪いお姉様に影響されたのさ」

 一緒にいたのがもしシロンだったら、もう少し穏やかで真面目なコーリャ君でいられただろう。

 そうだ、モスクワに行く楽しみがあった。謎の手紙と一緒に手帳に挟んであるシロンの連絡先を思い出す。本当に無事ロシアに行けたら、シロンに会ってみたい。

 何気なく目を閉じた時、思い出したのはシロンの驚愕に満ちた顔だった。

「コーリャ」

 マリヤがコーリャの頭を強くはたく。

「痛い!」

「あんたがぼうっとしてるからだ。ちゃんと目を開けてなよ。社長サンとやらの顔はあんたしか知らないんだから」

 コーリャは慌てて周囲を見回した。

「そうだったね」

 せかせかと行き交う大人たちの列から、一人の男が抜け出してコーリャに近づいた。小太りでがに股の、愛嬌のある顔だちの中年男だ。着ているスーツはよれよれで、男が手を振る度に煙草の灰が袖やポケットからこぼれ落ちた。マリヤは身構えたが、コーリャにはすぐに分かった。

「社長! お久しぶりです」

「ああ、コーリャ。会えて嬉しいよ……」

 近くでよく見ると、男の頭のてっぺんには半円の禿げがある。冷たい視線を注ぐマリヤの前でコーリャは男と握手した。

「そのぐるぐる巻きのせいで、すぐには分からなかった」

「あ、ごめんなさい」

 マフラーと帽子を取れば、コーリャの人懐こい笑顔が現れた。男の顔が少し曇る。

「元気そうだね。本当に良かった……」

 コーリャがマリヤの方を向いた。

「この人、ABC観光の社長さんだよ。昔バイトさせてもらってた」

「ほんの一ヶ月ほど前なのに、もう随分昔に思えるな」

 社長がマリヤに微笑みかけた。

「マリヤです。コーリャの友人です」

「恋人かい?」

「いいえ!」

「これはこれは、失礼を」

 マリヤは心の中で舌を出した。

「それで社長さん、僕たちお願いが……」

「ああ、メールで大体のことは分かった」

社長はコーリャとマリヤの肩を叩き、歩きだそうと促した。

「もう君たちにとっては遅い時間だね。今夜は私の家に泊まりなさい」

「いいんですか?」

 マリヤは丁寧に尋ねた。顔なじみのコーリャだけならまだしも、今会ったばかりのマリヤまで自分の家に招くのか。彼がよほど警戒心がないのか、何か意図があるのか。

「後者だろうな」

「……マリヤ? どうかした?」

 首を傾げるコーリャの背中をマリヤも押した。危険だと感じたら、逃げ出せばいい。社長と呼ばれるこの男を拒否して機嫌を損ねる時は今じゃない。


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