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「身代わりに産んだ娘が、今日も『私』に甘えてくる」 ~概念代行:私が彼女の《母親:父親》になった日~  作者: かおもじ


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9/12

ただいま

 キッチンに柔らかな、オレンジ色の西日が差し込む頃。

 スーパーから帰宅したハルは、手早くエプロンを身につけ、まな板の上に、買ってきたばかりの豚バラのブロックを並べていた。


 トン、トン、と。

 無駄のない小気味良い包丁の音が、静かな家の中に響き渡る。


 人間離れした圧倒的な美貌と、漆黒の長い髪。

 使い込まれた愛用のエプロン姿を除けば、どこからどう見ても生活感など微塵も感じさせない彼女だが、その手つきは十五年の歳月が育んだ、まごうことなき『熟練の主婦』のそれであった。


 鍋にたっぷりの湯を沸かし、ネギの青い部分とスライスした生姜を放り込む。そこへ大きめに切り分けた肉を入れ、灰汁を取りながらじっくりと下茹でをしていく。

 頃合いを見て湯を捨てて肉を洗い、今度は醤油や酒、砂糖などを合わせた煮汁で本格的に煮込み始める。


 やがて、甘辛い匂いがふわりと部屋いっぱいに広がり始めた。


 角煮の火加減を調整し、次は副菜の準備に取り掛かる。

 冷蔵庫から取り出したきゅうりをまな板に乗せ、トトトトッ、と、先程よりも軽快な音を立てて薄切りにし始めた、その時だった。


「ハルさーーん! ただいま戻りましたーーっ!!」


 ガチャァッ! と、玄関の扉が勢いよく開く音。

 それに続いて、バタバタと廊下を駆ける慌ただしい足音が響き、リビングの扉が勢いよく開かれた。


「おかえり、ひまり。今日も早かったね」


 きゅうりを切る手を止め、ハルが静かに振り返る。

 そこに立っていたのは、息を弾ませたひまりだった。


 高校の養護教諭という立派な職に就いている彼女だが、本来残業の多いはずのその業務を、昼休憩すら削る執念で定時きっかりに終わらせると、まさに音速とも呼べるスピードでこの家へと帰還を果たしていた。

 すべては、愛してやまないハルが待つこの空間へ、一秒でも早く戻るためである。


「はぁ、はぁ……っ! はいっ! 保健室の片付けを光速で終わらせて飛んできました! ……ああっ」


 報告を終えたひまりは、キッチンの入り口でピタリと動きを止め、口元を両手で覆った。

 その視線の先には、夕日を背に受けて穏やかに微笑む、エプロン姿のハル。


(ああ……っ、夕日に透ける黒髪……きゅうりを刻むしなやかな指先……。家庭的なエプロンを纏っているのに溢れ出る、この隠しきれない女神のオーラ……っ! 尊い……今日もハルさんが尊すぎる……っ!!)


 ひまりの瞳孔が開き、限界を迎えたオタク特有の荒い呼吸が漏れ始める。

 そんな彼女の内心の暴走など知る由もないハルは、小首を傾げて声をかけた。


「どうしたんだい? 入り口で立ち尽くして。……ああ、もしかして角煮の匂いでお腹が空いてしまったかな」


「ち、違います! いえ、違わなくもないですが! ハルさんの存在そのものが私にとっての極上のフルコースというか、むしろ私がハルさんに煮込まれたいというか……っ!」


「……そうか。相変わらず、ひまりは元気だね」


 早口で捲し立てるひまりに対し、ハルは全てを理解したような、それでいて何も理解していないような、涼しい顔で微笑みを返すだけだった。


「……ちょうどよかった。もし仕事の疲れが溜まっていなければ、少し手伝ってくれるかい?」


「手伝います!! ハルさんのためなら、この命燃え尽きるまで!!」


「大袈裟だよ。……ゆで卵の殻を剥いてほしいだけなんだ」


 ハルが苦笑しながらボウルを指差すと、ひまりは「光栄です!」と弾かれたように洗面所へ向かい、秒速で手洗いうがいを済ませてキッチンへと舞い戻ってきた。


 並んで立つ、二人の女性。

 まな板の前で副菜の仕上げに取り掛かるハルの隣で、ひまりは任されたゆで卵の殻を、まるで国宝でも扱うかのような手つきで慎重に剥いていく。


「そういえば、今日はひかりよりもひまりの方が帰ってくるのが早かったね……。あぁ、面接の練習でもしているのかな」


「あ、ひかりちゃん、今日は放課後に先生と面接練習があるって言ってました! 家を出てから、緊張した顔でブツブツ志望動機を呟いていましたし」


「そうか。あの子なりに、しっかり頑張っているんだね」


「はい。私が勤めている高校を受験するって決めてから、ずっと一生懸命で……。本当に、ハルさんに似て芯が強くて良い子です……っ」


 ハルが優しく目を伏せ、煮汁の染み込んだ鍋の中へ、ひまりの剥いたゆで卵をそっと落とし入れた。


 その時、玄関の方から、ゆっくりと重たい扉が開く音が聞こえてきた。


「ただいまぁ……」


 先ほどのひまりの「音速の帰還」とは打って変わって、力なく引きずるような足音。

 リビングの扉から顔を出したのは、すっかり疲れ切った様子のひかりだった。


「おかえり、ひかり。面接の練習、お疲れ様。ひまりから聞いたよ、頑張っていたんだね」


「おかえり! ひかりちゃん、お疲れ様! よく頑張ったね!」


 ハルとひまりが揃って声をかけると、ひかりはカバンを床に置き、フラフラとキッチンへ歩み寄ってきた。


「もうヘトヘトだよぉ……。緊張して噛みまくるし、敬語は変になるし……あ、角煮の匂い」


 鍋から立ち上る湯気の香りに気づいた瞬間、ひかりの顔にパァッと明るい色が戻る。


「ああ。今日は特売で、立派なブロックが手に入ってね。今、ひまりが剥いてくれたゆで卵も入れたところだよ」


「やったぁ! お母さんの角煮だ! 私、お腹ペコペコ!」


「……ふふ。でも煮物はね、一度冷まして味を落ち着かせないと美味しくないんだ。だからこれから火を止めて、じっくり味を染み込ませなければいけない」


 ハルはそう言ってコンロの火を落とし、鍋に落し蓋をした。


「えーっ、すぐ食べられないのー?」


「……ああ。美味しいものを食べるためには、少しばかりの辛抱が必要だ。だから、ひかりは先にお風呂に入っておいで。疲れも緊張も、お湯に浸かれば幾分か解れるだろう」


 ハルが淡々とした、けれど確かな温もりを含んだ声で促す。


「ハルさんの言う通りだよ、ひかりちゃん。お風呂から上がる頃には、きっとハルさんの特製角煮が最高に美味しくなってるからね!」


 ひまりもまた、優しいお姉さんのような立ち位置からハルの言葉に同調した。


 ひまりはひかりに助言をすることは多いが、決して母親のように『注意』をすることはない。

 ――それはきっと、ひかりの『母親』はあくまでハルなのだという彼女なりの配慮であり、産み落とせなかった我が子に対する、ひまり自身の線引きなのだろう。


 すべてを知るハルからすれば、彼女がそうやって一歩引いてしまう理由も、痛いほどによく分かっていた。

 けれど、本来であれば何よりも深く繋がっているはずの、血を分けた二人の間に引かれたその不器用な境界線は、ハルにとってひどくもどかしく感じられた。


「うぅ……はぁい。じゃあ、急いで入ってくる!」


「急いだとて、早く味が染みるわけではないのだがね……」


 苦笑しながらパタパタと洗面所へ駆けていくひかりを見送っていると、隣のひまりが弾むように声をかけてくる。


「それじゃあハルさん、ひかりちゃんがお風呂に入ってる間、私も自家でひとっ風呂浴びてきちゃいますね!」


「ああ……。湯冷めしないように温かくしておいで」


 週七で入り浸り、普段はハルの家でお風呂を済ませてしまうことも多いひまりだが、今はひかりが入っているため使えない。ひまりの家はここから徒歩十秒、文字通り真横にある隣家なのだから、一度帰って入浴してくるのが一番手っ取り早かった。


「はいっ! 角煮が最高の状態になる頃に、音速で戻ってきますね!」


 そう言い残し、ひまりもまた嵐のように玄関から飛び出していった。


 賑やかな二人を見送った、夕暮れのキッチン。

 ハルは静かに息をつき、火を落としたコンロの前で、ゆっくりと熱を落ち着かせていく鍋を見つめる。


 ふと、少しだけ開け放っていた窓の向こうから、元気な声が響いてきた。


『ただいまーーっ!』


 それは間違いなく、自身の家へと突撃したひまりの声だった。

 家を出てから十秒と経たずに響いたその嵐のような帰宅報告に、ハルは小さく肩を揺らす。


「……やれやれ」


 部屋に漂う、甘く温かな匂い。

 遠くから微かに聞こえる風呂場の水音と、隣家から漏れ聞こえる騒々しい気配に耳を傾けながら、ハルは一人、静かな微笑みを浮かべていた。


この度は私の作品をお読み頂き誠に有難う御座います。

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