激動の一ヶ月:夜泣き
産後二週間。
深夜二時。
夜の静寂を切り裂くように、ひかりの甲高い泣き声が部屋に響き渡った。
「……よしよし。どうしたんだい、ひかり。おむつは替えたばかりだろう」
私は鉛のように重い身体を引きずって布団から這い出し、小さな身体を抱き上げて部屋の中を歩き回る。
だが、腕の中の熱の塊は、私のぎこちない揺りかごを気に入らないのか、火がついたように泣き叫び続けていた。
眠い。
ひどく、眠い。
連日の細切れの睡眠で、頭の中は泥が詰まったように鈍く、視界の端が霞んでいる。
『身代わり』という手品で世界の因果を歪めることはできても、私自身の肉体構造はただの人間と何ら変わりはない。
腹は減るし、怪我をすれば痛い。そして今の私は、ただただ圧倒的に疲労していた。
腕は鉛のように重く、腰は軋み、足元はふらついている。
それでも、泣き叫ぶこの命をベッドに放り出すわけにもいかず、私は眠気と疲労に耐えながら、あてもなく部屋を右往左往するしかなかった。
「起こしてしまったね、ひまり。……今、廊下へ出るから」
部屋の隅。毛布にくるまったまま身を起こし、その身体を強張らせているひまりに、私は掠れた声で短く告げる。
思えば、彼女は別の部屋で寝ることもできたはずだった。……だが、私に『母』を明け渡した彼女は、我が子を恐れてしまう自己嫌悪に苛まれながらも、決してこの部屋から出ようとはしなかった。
『本当は、自分が産まなくちゃいけなかった』
『すべてをハルさんに押し付けて、逃げてしまった』
そんな血を吐くような罪悪感が、彼女をこの部屋に縫い付けている。
せめて、夜泣きに苦しむ私とひかりの傍から離れないことだけが、泥の中にいる彼女が必死に死守している『最後の一線』なのだろう。
その想いを汲み取りながらも、同じ様に隈を作り続ける彼女の負担を減らすため、私は重い足を引きずり、部屋のドアに手をかけた――その時だった。
「……揺れが」
かすれた、ひどく小さな声が背後から聞こえた。
振り返ると、毛布から半分だけ顔を出したひまりが、怯えたような、けれど真っ直ぐな目で私を見ていた。
「……お母さんが、言ってた。……ハルさんの抱っこは、少し、揺れが硬いって……。もっと、膝を使って……リズムを取らないと、落ち着かない、って」
それは、ぽつり、ぽつりとした、途切れ途切れの言葉だった。
だが、この一週間、決して自分から私に干渉しようとしなかった彼女が、最後の一線からほんのわずかに身を乗り出し、初めて『ひかりの世話』について口を開いた瞬間だった。
「……膝を」
私は言われた通りに少しだけ膝の力を抜き、強張っていた足全体で、ゆっくりとしたリズムを取りながらひかりをあやしてみた。
トントン、と背中を叩くリズム。
硬かった私の揺れが、少しだけ柔らかい波に変わる。
すると、火がついたように泣き叫んでいたひかりの声が次第に小さくなり、やがてヒック、ヒックというしゃくり上げへと変わっていった。
「……本当だ。泣き止んだよ。ありがとう」
私が心底からの安堵の息を吐きながら呟くと、ひまりは再び毛布の中へと顔を隠してしまった。
「……別に。私は……何もしてませんから……」
くぐもった声が、言い訳のように響く。
これまでの二週間、ひまりからひかりに干渉してくる事は無かった。
それでも、彼女はずっと掛布の中から、私と早苗のやり取りを静かに、見て、聞いていた。
本当は自分がやらなければならなかったことを、不器用な存在が必死にやっている姿を、罪悪感に苛まれながらもじっと観察し続けていたのだ。
「……ひまり。君のおかげで助かったよ」
私がそう告げても、掛布の山からは何の返事もない。……だが、彼女を包んでいた『恐れ』は、少しだけ薄れている様に見えた。
或いは……疲労と寝不足でボロボロになりながら、赤ん坊の夜泣きに敗北しかけていた私のひどく泥臭い姿が、もしかすると、彼女の中の琴線に、触れたのかもしれない。
腕の中で再び寝息を立て始めたひかりの重みと、掛布の向こうから伝わる微かな想い。
限界を迎えているはずの身体の疲労が少しだけ軽くなった気がした私は、窓から差し込む青白い月明かりの中で、静かに目を閉じるのだった。
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