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「身代わりに産んだ娘が、今日も『私』に甘えてくる」 ~概念代行:私が彼女の《母親:父親》になった日~  作者: かおもじ
『ひまわりの笑顔』

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激動の一ヶ月:ひかりの中に

ここまでお読み頂き、本当にありがとうございます!


今回で、ハルとひまりとひかりの物語は、一区切りとなります。

 ひかりが生後一ヶ月になろうかという頃。


 早苗から「少しだけ、外の空気に触れさせてあげるといいわ」とアドバイスを受けた私は、ひかりを連れて初めての短い散歩に出ることにした。


 玄関で靴を履き、ベビーカーにひかりを乗せる。そして、扉を開けようと、手を伸ばした……その時だった。


「待って、下さい……」


「……ひまり?」


 振り返ると、そこにはツバの広い帽子を目深に被り、外出する支度を整えて立っているひまりの姿があった。


 ひかりが産まれたあの日から、一度も外出することなく、一日の殆どを薄暗い部屋の隅で小さくなって過ごしていたひまりが、自分から「私も、行きます」と口にしたのだ。


 予想もしていなかった言葉に、私はひどく驚く。外の世界へ出るというのは、彼女にとって途方もない恐怖だったはずだからだ。


 確かに、彼女の尊厳を蹂躙した元凶は、排除されている。


 ……だが、それで彼女の心が救われたわけではない。世間の無責任な好奇の目、心無い言葉、あるいは、いつまた自分の日常が理不尽に壊されるかもしれないという漠然とした恐怖。


 外の世界には、あの男以外にも、彼女を傷つける要因がいくらでも転がっている。……彼女にとって外界とは恐ろしい場所であり、それは『母性』という最後の砦を失った今、一層色濃く感じているはずだ。


 実際、玄関で靴を履く時も、彼女の小さな背中はひどく震えていた。


 その姿を見かねた私が、「……無理をしなくても、大丈夫だよ」と声をかける。


 だが彼女は俯いたまま、小さく、けれどはっきりと首を横に振った。


「……大丈夫、です。……行きます」


 青ざめた唇でそう告げて。

 そうして、彼女は自ら震える足を前に出し、私とひかりの背中を追ってきたのだ。



 ◇ ◇ ◇



「……」


 ――そうして今、ベビーカーを押す私の隣には、半歩ほど遅れた位置で、ひまりが歩いている。


 外の心地よい揺れのおかげか、ひかりは家を出てすぐに小さな寝息を立て始め、私たちの間に落ちる時間はひどく静かだった。


 初夏の風が、街路樹の葉を揺らしている。


 『身代わり』として変質した私の肉体も、少しずつ出産のダメージから回復し、自分の足で大地を踏みしめる感覚を取り戻しつつあった。


「……ひまり。疲れたら、すぐに言うんだよ」


 私が前を向いたまま静かに問いかけると、彼女は俯いたまま、小さく首を横に振った。


「……大丈夫、です。……ハルさんこそ、無理しないで下さい。……産後、なので」


 ――その言葉を自らの口で紡ぐことが、彼女にとってどれほどの痛みを伴うか。


 本来ならば、自分が身を削って経験するはずだった『産後』の苦労を、私に丸ごと背負わせたという拭いきれない罪悪感。

 彼女は、自分が逃げ出したという残酷な事実から決して目を逸らさないように、あえて自罰的にその言葉を口にしたのだ。


 ――だが、彼女はただ俯き、過去の罪に囚われているだけではなかった。


 ふと横顔を見ると、目深に被った帽子の下で、彼女の視線がひたすらにベビーカーへと向けられていることに気がついた。


 産まれた直後は、直視することすらできなかったあのひまりが、ベビーカー越しとはいえ、しっかりとひかりの方を向いている。


 特別な、なにかがあった訳ではない。ただ、一ヶ月という時間の中で、彼女は少しずつ前進し、変わり始めているのだ。


 母性を奪われ、真っ直ぐに愛せないと絶望しながらも……。それでも、目の前のひかりと少しずつ向き合い始めているのは、彼女自身の持つ本来の強さなのだろう。


 そんなことを感じながら、公園の脇の、少し開けた道に出た時だった。


「あら、可愛らしい赤ちゃんねえ。ちょうど一ヶ月くらい?」


 前方から歩いてきた年配の女性が、ふと足を止めてベビーカーの中を覗き込んだ。


 突然の『外界』からの接触に、ひまりの足がぴたりと止まる。


「ええと……はい」


 私が曖昧に頷くと、女性は私の顔を見て、にっこりと目を細めた。


「あなた、若いのにすっかりお母さんの顔をしてるわね。今が一番大変な時期でしょう」


 私の今の外見は、歳若いひまりの『母性』を因子にしたためか、世間から見れば若い娘にしか見えない。

 だが、女性の穏やかな目は、私をこの子の『母親』として認識しているようだった。


 そして女性は、私の後ろで立ち尽くすひまりへと視線を移した。


「そちらは、妹さんかしら? 一緒にお世話を手伝ってくれて、お姉さんも助かるわねえ」


 ――悪意など微塵もない、純粋な善意の言葉だった。


 けれどそれは、ひまりにとって、この外界のどの悪意よりも鋭く心を抉る刃だったはずだ。


 ――ここには、不完全な『母』しかいない。


 いるのは、十月十日を守り抜くも腹を痛める役割を託した少女と、身代わりとして役割を引き受け、命を産み落とした私だけ。


 そして、今の女性の言葉は、ひまりの現状を『側にいるだけの存在』という、酷く残酷な形で突きつけたのだ。


 ひまりの息づかいが、ふっと止まる気配がした。


 帽子の下で唇を強く噛み締め、両手がスカートの裾を白くなるほど握り込んでいる。


 悪意の無い言葉だからこそ、深く、鋭く、刺さる。

 だが、女性はそんなひまりの心情に気づくはずもなく、朗らかに言葉を続ける。


「夜泣きとか、毎日のことで大変でしょう。妹さんも偉いわね、しっかりお姉ちゃんを支えてあげてね」


「あの……」


 私が話を切り上げて立ち去ろうとした……その時だった。


「……はい」


 ひまりが、半歩だけ前へ出た。


 ひどく震える、絞り出すような声だった。彼女は顔を伏せたまま、それでもハッキリと女性に告げる。


「私……手伝います。色々……大変、だから……」


 ――だが、それは、向かい合う女性への返答の言葉ではなかった。


 『母』を背負わせてしまった私への贖罪。そして、自分自身に対する覚悟。短いひまりの言葉には、確かにそんな響きが含まれていた。


「ふふ、頼もしいわねえ。……頑張ってね、お母さん」


 女性は微笑ましそうにそう残し、ゆっくりと通り過ぎていった。


 遠ざかる女性の後ろ姿を、私は無言で見送る。

 隣のひまりは顔を伏せた姿勢のまま動かず、地面に落ちる彼女の影が、微かに震えている。


「……ひまり」


 私が静かに呼びかけると、彼女はゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐにこちらを見た。


 その瞳の強さに、私は思わず息を呑む。

 恐怖で足がすくんでいたはずの彼女の目には、先程までとは違う、静かで確かな決意の色が宿っていたのだ。


 そして彼女は、私の半歩後ろから抜け出し、真横へ並び立つ。


 彼女は、私が握っていたベビーカーのハンドルへ、震える両手をそっと重ねてきたのだ。


「……ハルさん。代わります」


 ひまりは、真っ直ぐに前を向いて言った。


「私が……押します。手伝い、ですから」


 ……自らを『手伝い』と呼ぶことの重さを、私が推し量ることはできない。


 それでも彼女は、この小さな命が進む重みだけは、自らの手で引き受けようとしていた。

 それは、彼女の選び取った、確かな一歩だ。


「……そうだね。少し、お願いしようかな」


 私がベビーカーから手を離すと、ひまりの腕に確かな重みが伝わり、小さな車輪がゆっくりと前へ進み始める。


 私と、ひまりと、ひかり。


 重い業と命の重さを、不器用に分け合う、歪な形。

 きっとそれは、誰が欠けてもバランスを保てないのだろう。


 ――初夏の風が吹き抜け、街路樹の葉がさらさらと擦れる音を立てた。


 少し強くなった日差しに、ひまりがポツリと呟いた。


「……ひかりちゃん、眩しくない、ですかね……?」


 私は、太陽の眩さに少しだけ目を細めながら、静かに空を仰ぎ見る。


 降り注ぐ、全てを包み込む温かなひかり。……その優しさに、思わず声が漏れる。


「ああ……世界は少し、眩しいね……」


 ――アスファルトの上、並んで進む不揃いの影。


 歩調だけを重ねた三人は、柔らかなひかりの中へ、ゆっくり、ゆっくりと、溶けていくのだった。



 ◇ ◇ ◇



「お母さん?」


 不意に鼓膜を揺らした、鈴を転がすような声。それにハッと意識を引き戻され、私はテレビ画面から視線を外した。

 どうやら、画面の向こう側に映る景色に、あの日の柔らかな初夏の光を重ねてしまっていたようだ。


 視線を落とすと、心配そうに顔を覗き込んでくるひかりの姿があった。

 私はその愛おしい小さな身体を、無言で優しく抱き寄せる。


「わっ、急にどうしたの?」


「……なんとなく、ね」


「ふふ。変なお母さん……でも、なんか嬉しい」


 ひかりは私の腕の中で、えへへ、と幸せそうに身をすり寄せてくる。


 そんな私たちのやり取りを、少し離れた場所から見守っていたひまりが、ふと立ち上がった。

 いつもなら、定位置から穏やかな微笑みを浮かべて見守っているだけの彼女。だが今日は、迷うことなくこちらへ歩み寄ると、私の隣――ひかりを挟み込むような形で、ソファーにそっと腰を下ろしたのだ。


「あれ? ひまりちゃんも?」


 珍しいひまりの行動に、ひかりが目を丸くして軽く驚く。

 ひまりは少しだけ照れくさそうに目を細めると、小さく、けれど確かな温もりを込めて口を開いた。


「なんとなく!」


「もぉ、二人とも、変なの〜」


 呆れたように笑いながらも、大好きな二人に挟まれたひかりの表情は、どこまでも明るく、嬉しそうだった。


 ――あの日、不器用に分け合った命の重さ。

 不揃いで、歪だった三人の影は、今こうして一つに寄り添い、確かな温もりを紡いでいる。


 私と、ひまりと、ひかり。


 これからも、この愛おしい日常の時間は、静かに流れていくのだろう。



  第一章:完


今回のお話で


「身代わりに産んだ娘が、今日も『私』に甘えてくる」 ~概念代行:私が彼女の《母親:父親》になった日~


は一旦、区切りとなります。


まだお話としては書きたいことも沢山有り、構想もあります。ただ、今後は少し時間を置いてから、二章、或いは幕間として書いていければと思っています。


改めて、ここまで読んで頂き、ほんっとうに、ありがとうございます!またお会いしましょう!

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