激動の一ヶ月:三日目の夜
産後三日目。
私の身体は、未だに深い泥の底に沈んだように重かった。
不老の肉体といえど、再生に係る時間は常人と変わらない。
骨盤の歪みからくる歩行のしづらさ、下腹部に居座る鈍い痛み、そして細切れの睡眠による慢性的な疲労感。
すべてが初めての連続であり、手探りの日々。それに伴い生まれる精神的な疲労。
……だが、こちらがどのような状態でも、彼女の歩みは既に始まっているのだ。
「ハルさん、もう少し赤ちゃんの首と背中を、腕全体でしっかり支えてあげて。そう、お湯に入るときは足先からゆっくりとね」
「……ああ。こうか。ひどく、骨が細いね……少しでも力を入れれば、折れてしまいそうだ」
浴室に置かれたベビーバス。
張られた温かな湯の中で、小さな命がふにゃりと身をよじる。
石鹸の泡で滑り落ちてしまいそうなほど小さく、脆い身体。それを落とさないよう、私の両腕にはひどく不自然な力が入り、肩の筋肉が張って仕方がない。
だが、その疲労は、違う感慨を生む。
腕の中に収まるこの無垢な重みと、手のひらから伝わってくる確かな熱。それを感じるたび、身体を軋ませるはずの痛みが、不思議と心地よいものに思えてくるのだ。
私という虚ろな器の底に、馴染みの無かったはずの『母性』という淀みが、静かに、けれど深く満ちていくのを感じていた。
「ふふ、ハルさん、すごく緊張していますね」
「否定はしないよ。……己の力加減ひとつで、命を散らしてしまいかねない恐ろしさを、確かに感じている」
「それは、そうよね」
ふわりと笑う早苗の和やかな声が響き、湯気とともに温かな空気が満ちる。
だが、その『生』に満ちた空気の境界線は、ここまでだ。
その温かさは、決して洗面所の外までは広がってはいなかった。
少し離れた、仄暗い脱衣所の隅。
ひまりは今日も薄い掛布にくるまり、膝を抱えたまま、こちらをじっと見つめている。
私が因果を引き受けたことで、彼女の肉体からは『妊娠していた』という事実そのものが完全に消え去っている。
傷一つなく、痛みもなく、元の健やかな少女のままであるはずだった。
しかし、肉体がどれほど無垢であろうと、彼女の魂は未だ深く暗い絶望の底に囚われている。
おぞましい記憶。自身を壊しかけた存在への純粋な怯え。そして、すべての業を私に押し付けてしまったという泥のような罪悪感。
命を育む喜びに満たされ、母性を深めていく私の痛む肉体。
ひかりという存在によって、無傷のまま闇の底で怯え続ける彼女の健やかな肉体。
それは、あまりにも残酷な対比だった。
今の彼女の瞳に宿っているのは、我が子に向ける愛情ではない。ただ、その残酷な事実の象徴として在るひかりを、ひどく張り詰めた様子で観察しているだけだ。
「……ひまり」
私が低く声をかけると、ビクリと彼女の肩が大きく跳ねた。
怯えさせるつもりはなかったが、今の彼女にはどんな音も脅威に響くのだろう。
「もうすぐ終わる。……すまないが、そこの棚から新しいガーゼを取ってきてくれないか」
「あ……はい……」
あえて、直接的なふれあいを避けた事務的な頼み事。
ひまりは逃げるように立ち上がると、棚から真新しいガーゼを取り出し、私の傍らにそっと置いた。
私と接触を避けるように……否、私の手の中のひかりとの接触を避けるように、そのまま足早に脱衣所を出ていく。
――今はまだ、これでいい。
私が彼女の代わりに痛みと業を引き受けたのは、彼女に無理な母性を強いるためではないのだから。
触れることなどできなくても、同じ家の中で、同じ時間を呼吸している。
今はその事実だけを微かな繋ぎ目としながら、私は不器用な手付きで、ひかりの小さな身体をそっと拭い続けた。
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