激動の一ヶ月:はじまりのぬくもり
ひかりの中間テストも無事に終わり、常盤家にささやかな平穏が戻ってきた週末の夜。
夕食の片付けを終えた私たちは、リビングのソファに三人で並び、とりとめもなくテレビの画面を眺めていた。
夜の静寂を埋めるように流れていたのは、命の誕生を追うドキュメンタリー番組だった。
画面の中では、生まれたばかりの我が子を抱き、若い母親が涙を流している。
どうやら、母乳が上手く出ないことに深く思い悩んでいるらしい。彼女の焦りと不安が、画面越しに伝わってきた。
「……ねえ、お母さんはどうだったの?」
ふと、ひかりがクッションを抱きながら、本当に軽い、何気ない調子で尋ねてきた。
「こういうのって、やっぱり大変だった?」
その無邪気な問いかけに、私は言葉を返す前に、隣に座るひまりと自然に視線を交わした。
ひまりは少しだけ目を丸くしたあと、どこか困ったような、けれど柔らかい微笑みを浮かべて小さく肩をすくめた。私もつられて、僅かに口角を上げる。
「……そうだね」
私は視線をテレビに戻し、静かに口を開いた。
「出なくて辛かった、ということはなかったよ。ただ……」
「ただ?」
「不慣れな事ばかりだったからね……大変だったのは間違いないよ」
それ以上は語らず、私はそっと目を伏せた。
人の理から外れた私が、命を産み落とす。
それを奇跡と呼ぶべきか、或いは異端と呼ぶべきか……言葉にするにはあまりにも複雑な出来事だった。
――オギャア、オギャア。
テレビから流れる赤子の泣き声が、いつしか私の記憶の奥底にある、あの日の産声と重なり合っていく。
目を閉じれば、今でも鮮明に蘇る。
初めてその小さな命に、私の全てを与えるように授乳をした、あの日の光景。そして、そこから連なる、激動の一ヶ月の記憶が……。
◇ ◇ ◇
――ひかりという名を与えられた小さな命を抱き留めた後、私の意識は深い泥の底へと沈み込んだ。
本来ならひまりが負うべき因果を、肉体の作り変えと共に強引に引き受けた代償。数千年を生きてきたこの身体ですら、指先一つ動かせないほどの疲労に支配されていた。
そうして、次に重い瞼を開いた時、窓の外はすでに白み始めていた。
意識がゆっくりと浮上するのと同時に、微かな寝息が部屋に響いているのを感じる。視線だけを這わせると……部屋の隅、極限の緊張と怯えから解放されたひまりが、糸が切れたように眠っているのが見えた。
ふと、私の胸元で、もぞもぞと何かが動くのを感じる。
鉛のような身体を気力で動かし、なんとか首を持ち上げる。……するとそこには、自らが産み落とした、確かな命が存在している。
「……お目覚めですか、ハルさん」
それに合わせ、静かな声と共に、早苗が枕元に歩み寄ってくる。彼女の顔にも深い疲労が刻まれていたが、その瞳は穏やかだった。
「ひかりちゃん、お腹が空いて泣き出していたところなんですよ」
早苗はそう言って、私が体を起こすのを支えながら、腕の中にそっと赤子を抱き直させた。
小さな口が、ちゅぱちゅぱと音を立てて何かを探している。
「……」
私のわずかな沈黙とぎこちなさを察したのだろう。早苗は何も聞かず、ただ静かに私の背に手を添えた。
「……ほら、少し身体を横に向けて。首の後ろを、こうして支えてあげてください」
穏やかな温もりを帯びた手が、私の腕を優しく導く。
「赤ちゃんの口元に、そっと寄せてあげるんです。あとは、この子が自分で見つけますから」
促されるままに、昨日まではなかったその柔らかな乳房を、ひかりの口にそっと含ませようとする。
最初は小さな唇が何度か空を切ったが、やがて正しい場所を見つけると、力強いリズムで吸い付き始めた。
こくり、こくりと。
小さな喉が鳴る音が、静かな部屋に落ちる。
――痛み。
不慣れな皮膚が強く引かれるひりつくような痛みと、下腹部が鈍く収縮するような、ひどく生々しい感覚。
だが、私の内側から分泌されるものが、確かにこの小さな命の糧となっている。その痛みを伴う規則的な拍動を感じた時、胸の奥底から、名状しがたい熱が静かに込み上げてきた。
――ああ。私は、この子の『母親』になったのだ。
そんな圧倒的な実感が、静かに血肉の隅々へと浸透していく。
「……本当に、出るんですね」
不意に、掠れた声が響いた。
見れば、いつの間にか目を覚ましていたひまりが、その身を起こし、こちらを見つめていた。
「……そのようだね」
私は視線を腕の中に落としたまま、静かに応えた。
こちらを見つめるひまりの表情に、笑みはない。
私の無事を確認した安堵。我が子を直視するだけで生じてしまうおぞましい拒絶感。そして、自分に代わって因果を引き受けた私に対する、罪悪感。
ぐちゃぐちゃに絡み合った感情が、彼女の顔を痛ましく歪ませていた。凄惨な地獄の底から這い上がったばかりの彼女に、心からの安らぎなど、そう簡単に訪れるはずもない。
「……どんな……どんな顔をしてますか……?」
「安らいだ表情をしているよ。君に良く似ている……」
「そう、ですか……」
直視は、出来ない。
それでも彼女は、目を逸らすことだけはしまいと、伏し目がちにそのひどく怯えた瞳で、必死に私たちを見つめ続けていた。
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