銀縁の奥向こう
誠の誕生日を無事に終え、一息ついた週末のこと。
十月半ばの穏やかな午後、常盤家のリビングには心地よい作業音だけが落ちていた。
カリカリ、と。
ひかりが中間テストに向けて、ローテーブルでノートにシャープペンシルを走らせる音。
カタカタ、と。
ひまりが仕事の資料をまとめるため、同じくノートパソコンのキーを叩く音。
そこから少し離れたダイニングテーブルで、私は溜まっていた翻訳用の原稿に目を通し、時折ペンを動かして修正のチェックを入れていた。
視線を落とすたびに私の鼻梁にある、鈍い光を放つ銀色の眼鏡が、少しだけずれ動く。
ともすれば、煩わしくも思えるこの眼鏡……不老の身に劣化という概念はなく、当然、目が悪い訳でもない私には、本来必要のないものだ。
「ふぅ……」
手元の原稿からふと顔を上げ、少し離れた席へと視線を向ける。
画面に向かって一心にキーを叩くひまりの横顔を見やると、いつかの騒々しい記憶が、自然と脳裏に蘇ってきた。
◇ ◇ ◇
『ハルさん、執筆のお仕事なら絶対にコレを掛けてください!』
いつだったか、ひまりが鼻息を荒くして迫ってきた日のことだ。
彼女が差し出してきたのは、細身のシルバーフレーム。知的な印象を与えるという触れ込みの、スクエア型のハーフリムだった。
『私は別に目は悪くない。不要だと思うが……』
『伊達メガネです! 良いんです! 雰囲気です!』
有無を言わさぬ勢いに押し切られ、私が仕方なくそのフレームを耳に掛けた瞬間だった。
『ああっ! あああっ……! クールなハルさんが眼鏡を掛けることで、そこに更なる知性が加わり、最早神話の領域! 知を司る神メティスも、今までコレを知らなかった己の無知を嘆くレベルです。最高です、大宇宙に感謝……っ!』
ひまりは両手で顔を覆ったかと思えば、そのまま床に崩れ落ち、カーペットの上をのたうち回りながら天に向かって謎の感謝を捧げていた。
◇ ◇ ◇
「やれやれ……」
当時のひまりの様子を思い出し、私は苦笑しながらずれたフレームを指先で軽く押し上げ、再び手元の原稿に視線を戻した。
あの後も、執筆のたびに『ハルさん、眼鏡! 眼鏡を!』と迫ってくる彼女に根負けし、いつしかこうして仕事に向かう時には、無意識にこの眼鏡を探すようになってしまったのだ。
……まあ、仕事と日常を切り替える『スイッチ』としては、案外悪くない。
カリカリ。カタカタ。
秋の柔らかな日差しが差し込む部屋で、家族が刻む静かな音が響く。
やがて一段落ついたところで、私はふと手元の翻訳作業を止めた。
小さく息を吐き、静かに席を立つとキッチンへ向かい、湯を沸かす。
少し冷えてきた空気に合わせ、香りの良いアールグレイの茶葉を選んだ。
三つのカップに丁寧に注ぎ分け、トレイに乗せてリビングへ戻る。
「……ひかり。少し休んだらどうだい」
声をかけながら、ノートに向かうひかりの横にそっとカップを置く。
「あ、ありがとう、お母さん。ちょうど休憩したかったところ」
ひかりは顔を上げ、ふわりと笑ってカップを両手で包み込んだ。
続いて、画面と睨み合っていたひまりの傍らにも、同じようにカップを置いた。
「ひまりも。……お疲れ様」
「ん……あ、すいません。ありがとうございま――」
カタッ、と。
ノートパソコンから顔を上げたひまりが、言葉の途中でピタリと硬直した。
彼女の視線は、カップを差し出す私の顔――正確には、鼻梁に乗ったままのフレームに釘付けになっている。
どうやら、仕事に没頭するあまり、少し離れた席にいた私がこれを掛けていたことに気付いていなかったらしい。
「…………っ!」
声にならない悲鳴だった。
ひまりは両手で口元を覆い、そのまま限界まで目を見開いた。
ぷるぷると小刻みに震え出し、やがて心臓のあたりを強く押さえて天を仰ぐ。
まるで何かの発作のようだが、本人は至極幸せそうにしているのだから始末に負えない。
「……大袈裟だね。冷めないうちに飲みなさい」
「む、無理です……。不意打ちのインテリ眼鏡ハルさん……破壊力が、致死量……っ」
「……全く」
私は小さく息を吐き、自分の席へと戻る。一口含んだ紅茶の香りが、鼻からすっと抜けていくのを感じる。
「ふふっ、ひまりちゃんたら。本当に冷めちゃうよ?」
その後も石像のように固まったままのひまりに、おかしそうに笑いながら声をかけるひかり。
ハッと我に返ったひまりは姿勢を正すと、どこか夢見るような、とろけた表情でカップへ両手を伸ばした。
「いただきます……っ。ふふっ、美味しい。最高の眼福の後に、ハルさん特製の紅茶……ああ、生きててよかったです……」
「……見てどうというものでもないと思うのだがね」
私は手元の資料に視線を落としたまま、静かに返す。
視界の端では、ひまりがまだチラチラとこちらを盗み見ながら、幸せそうに紅茶を啜っているのがわかった。
「でも、お母さん、目は悪くないよね? なんで掛けてるの?」
ひかりの純粋な問いかけに、私は少しだけ視線を落とす。
「……ただの、気まぐれだよ」
「気まぐれ?」
「ああ。……物書きは、これをしなければならないと、誰かさんにしつこく教えられてね」
「……なるほどね」
ひかりはクスリと笑い、少しだけ呆れたような、けれど温かな視線を私に向けた。
「お母さん、ひまりちゃんに甘いよねぇ」
「……そうかい?」
「そうだよ。おばあちゃんもよく言ってるし」
ひかりは楽しげに言い残し、カップを置いて再びシャープペンシルを手に取った。
ひまりもまた、満面の笑みで口角を上げながら、キーボードへ指を戻す。
「ふぅ……休憩はおしまいだ。二人とも、無理はしないようにね」
「はーい」
「了解です!」
それきり、言葉は途切れた。
ほんのり甘い紅茶の香りが漂う部屋に、また少しずつ、静かで規則的な音が戻ってくる。
カリカリ、と。
カタカタ、と。
そして、私が静かにペンを動かし、原稿を擦る、シャッ、シャッ、という音。
秋の柔らかな光の中で、それぞれの刻む音だけが、ただ心地よく重なっていた。
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