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「身代わりに産んだ娘が、今日も『私』に甘えてくる」 ~概念代行:私が彼女の《母親:父親》になった日~  作者: かおもじ
『ひまわりの笑顔』

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水音にとける悔恨

 常盤家のキッチンには、食欲をそそる芳醇な香りが漂っていた。


 誠の誕生日を祝う宴の準備のため、並んでキッチンに立つ私と早苗は、手分けして夕食の仕上げに取り掛かっていた。


 私が大きな塊肉から丁寧にローストビーフを切り分けている横で、早苗が手際よく小鍋をかき混ぜながら、鶏肉のトマト煮込みの味を調えている。


 彼女は小皿にすくった煮汁を微かに口に含むと、少しだけ思案するように小首を傾げた。


「んー……もう少しだけ、黒胡椒と赤ワインを足そうかしら。お父さん、少しだけ味が濃くてスパイシーな方がご飯が進むって喜ぶから」


 そう言って、躊躇いのない手つきで調味料を振り入れ、もう一度味見をして満足げに頷く。

 その淀みない一連の動作を、私は静かに見つめていた。


「……やはり、おじいちゃんの好みの味を一番知っているのは、おばあちゃんだね」


 私が小鍋へと視線を向けながら淡々とそう告げると、早苗は少しだけ照れたように微笑み、「そうね」と小さく頷いた。


 長年連れ添い、共に様々な苦難を乗り越えてきた夫婦の歴史。そこには、私には感じ取れない、確かな絆と理解がある。


 ――やがて、料理の準備を終わるのとほぼ同時に、玄関のドアが開く音が聞こえる。今日の主役である誠が帰宅したようだ。


「あ、おじいちゃん帰って来た! おじいちゃん、もう遅いよ〜!」


「すまんすまん……」


 遠巻きにそんな声を聞きながら、私は出来上がった料理を静かにテーブルへと運び始めた。



 ◇ ◇ ◇



 ささやかだが温かい誕生日の宴の始まり。


 テーブルには私が腕を振るったローストビーフと、早苗が味付けをした誠好みの手料理が並んでいる。


 全員が席につき、それぞれのグラスが行き渡った。


「お父さん、お誕生日おめでとう」


「おじいちゃん、お誕生日おめでとう!」


 家族からの祝福の言葉と、ささやかな乾杯の音頭。

 カチンとグラスが触れ合う澄んだ音が響き、誠は照れくさそうに、けれど心底嬉しそうに目尻を下げてグラスを傾けた。


 そうして喉を潤し、さあ食事を始めようかという、その時だった。

 ひかりが弾かれたように立ち上がり、隠し持っていた小さな紙袋を誠の前に差し出した。


「あっ、ご飯を食べる前に、これ! 私からのプレゼント!」


「おおっ!? ひかりからか!? いやぁ、わざわざ気を使わなくても良かったのに……開けてもいいかい?」


 デレデレに相好を崩しながら、誠が丁寧に包みを開ける。

 中から現れたのは、少し渋い色合いをした、保温性の高そうな真空断熱のタンブラーだった。


「この前、お友達と遊びに行った日に、皆にも相談して一緒に選んで買ったんだ。おじいちゃん、夜によく冷たいお酒や温かいお茶飲んでるから、これならずっと美味しいままだよ!」


「ひかり……お前、折角友達と遊びに行ったのに、わざわざおじいちゃんのためにそんな事を……っ!」


「もー、当たり前でしょ! ひまりちゃんやおばあちゃんは、絶対ギリギリまで忘れてるだろうなって思ったから、私からのサプライズ!」


 えっへん、と得意げに胸を張るひかりの言葉に、図星を突かれた早苗とひまりが、気まずそうにスッと視線を逸らした。


 そう。つい先日のお休みの話。「すっかり忘れていた」と慌てて百貨店へネクタイを買いに行っていたあの時……ひかりはとうに、友人たちを巻き込んで完璧なプレゼントの準備を済ませていたのだ。


「ひかり……! ああ、なんていい子なんだ。おじいちゃんは嬉しいよ」


 誠は愛おしそうにタンブラーを撫でながら、心底嬉しそうに相好を崩した。


「……なら、これは丁度良かったね」


 私は傍らに用意しておいた一本のボトルを、そっとテーブルの中央に置いた。

 薄暗い色をしたワインボトルだ。


「ハ、ハルさん……これは?」


「私からのプレゼントさ……おじいちゃんの生まれ年のワインだよ。たまたま、お店で見かけてね」


「俺の生まれ年……! そんな貴重なものを……いや、でも、ハルさんまで気を使わせてしまって……」


「気など使っていないさ。いつも家族のために働いてくれていることへの、ささやかなお礼だよ」


 私が淡々と告げると、誠は恐縮しながらも、その顔には隠しきれない喜びが滲んでいた。


「ふふ、お父さんったらだらしなく笑っちゃって。ほら、私たちからもプレゼントよ」


 苦笑する早苗とひまりが、綺麗な包装紙に包まれた細長い箱を誠に手渡した。


「これは……ネクタイか?」


「ひまりがね、お父さんのスーツにはこれが一番似合うって言って選んだのよ。ハルさんも太鼓判を押してくれたわ」


 早苗の言葉に、誠は少しだけ驚いたように目を丸くし、隣に座る娘へと視線を向けた。


「ひまりが、選んでくれたのか」


「う、うん。……その、お母さんやハルさんにも手伝ってもらったんだけどね。でも……いつもお仕事、お疲れ様。お父さん」


 少し照れくさそうに視線を逸らしながら言うひまりの言葉に、誠は「……ありがとう」と短く応え、そのネクタイをひかりのタンブラーと同じように、大切に胸に抱いた。


 そうして始まった宴はいつにも増して温かく、家族の穏やかな笑い声が響き合う事となった。



 ◇ ◇ ◇



 宴も終わり、ひかりがお風呂へと向かった後のこと。


 早苗と手分けして後片付けを進め、キッチンのシンクで食器を洗っていた私は、ふと、リビングのソファで一人、ネクタイの箱を愛おしそうに見つめている誠の背中に気がついた。


 そこに、急須で淹れた温かい緑茶と、彼が先ほどまで眺めていた真新しいタンブラーを手にしたひまりが、静かに歩み寄っていく。


「……お父さん。さっそく、ひかりちゃんのタンブラーでお茶、淹れたよ」


「ああ、すまないね」


 ひまりが隣に腰を下ろすと、誠は手渡されたタンブラーを両手で包み込み、ゆっくりと口をつけた。


 私は彼らの邪魔にならぬよう、洗い物の手を少しだけ緩め、水音を小さくする。


「……うん。いつものお茶が、何倍も美味しく感じるよ」


「ふふ、大げさだなぁ。……でも、良かった」


「ひまりが俺のためにネクタイを選んでくれて、ひかりが俺の晩酌の心配をしてくれるなんて。……こんな日が来るなんて、思わなかったよ」


 誠の口からこぼれ落ちたその言葉に、リビングにほんの少しだけ、静かな空白が落ちた。



 あの凄惨な日々。



 恩師と信頼していた『あの男』に、結果として娘を売ってしまう形となった、誠にとっての決して消えない、深い悔恨。


 事が発覚した後の対応の中で、ひまりが世間からの好奇の目で晒される事を防ぐため、家を変え、土地を変え、防波堤として今の日常を守り抜いたのは彼だ。


 それでもなお、娘に対する拭いきれない罪悪感を抱え続けているのだろう。


「……俺は、ずっと恐ろしかったよ」


 誠が、ぽつりとこぼす。


「ひまりが笑顔を取り戻して、ひかりが真っ直ぐに育ってくれて……こうして家族で食卓を囲めることが、夢なんじゃないかって。……俺なんかが、こんな幸せな場所にいていいのかって、ずっと思っていた」


 絞り出すような、不器用な父親の懺悔。


 その言葉を、ひまりはただ静かに、怒ることも悲しむこともなく聞いていた。


 やがて、ひまりは手元の湯呑みを見つめたまま、柔らかい声で紡ぐ。


「……お父さんが、私を守るために、あの時どれだけ外で戦ってくれたか……お母さんから、ずっと聞いていたよ」


「ひまり……」


「ハルさんは、壊れかけた私の心と体を救ってくれた。……でも、私たちが安心して暮らせる……この『常盤家』という居場所を守り抜いてくれたのは、お父さんだよ」


 ひまりは顔を上げ、かつての怯えた少女ではない、一人の大人の女性としての、芯の通った瞳で誠を見つめた。


「私は今、すごく幸せだよ。ハルさんがいて、ひかりちゃんがいて、お母さんがいて……お父さんがいる、この毎日が。だから……そんな悲しいこと、言わないで」


「…………ああ。そうだな。……すまない」


 誠は大きく息を吸い込み、天井を見上げて、溢れそうになる何かを必死に堪えていた。


 そして、隣で微笑む娘の頭に、不器用な手つきで、そっと優しく触れた。


「ありがとう、ひまり。……本当に、ありがとう」


 ここに至るまでの道程は、決してありふれたものではない。……だが、今目の前にあるこの光景は、どこにでもある、父と娘が寄り添い合う姿だった。


 過去の傷を無かったことにはできない。それでも、今日という日に新しい思い出を積み重ねていくことはできる。


 私は小さく息を吐き、再び蛇口を捻った。


 静かに流れる水音は、不器用な父娘の語らいを優しく包み込み、秋の夜の空気に溶けていく。


 窓の外では、虫の音だけが、私たちの穏やかな日常を祝福するように鳴り響いていた。


この度は、私の作品を読んで頂きありがとうございます!

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