消えた真実
文化祭も終わり、一息ついた週末。
ひかりは朝から友人と遊びに出かけていた。
我が家の太陽であるひかりの不在により、家はひっそりと静まり返っている。
淹れたての紅茶から立ち上る湯気を見つめながら、私は読み溜めていた文庫本のページを静かにめくっていた。
ソファの対面では、ひまりが私の淹れた紅茶を両手で包み込み、どこか恍惚とした表情を浮かべている。
「……文化祭も終わって一段落ですけど、ひかりちゃんは元気に遊びに行きましたねぇ」
「……若さの特権だよ。良いことじゃないか」
「……そういうハルさんだって、身体は永遠の十代じゃないですか……」
「若いのは肉体ばかりだからね。……活気良くとは行かないさ」
私がページから視線を外さずに淡々と返すと、ひまりは「まぁ、そのアンバランスさが、ハルさんの魅力ですもんね……!」と小さく呟き、なぜか興奮しかけている。
そんな、穏やかな時間を過ごしていた時のことだ。
ピンポーン、と。
控えめだが、どこか弾んだようなインターホンの音が鳴った。
「わっ、私が出ます、ハルさん! 神の御手を煩わせるわけにはいきません!」
ひまりが弾かれたように立ち上がり、玄関へと向かう。
やがて、パタパタという二人分の足音と共に、リビングに一人の女性が姿を現した。
「おはようございます、ハルさん。朝早くからごめんなさいね」
ふわりと、春風のような柔らかい声。
そこに立っていたのは、ひまりの実母であり、ひかりの祖母にあたる早苗さんだった。
「おはよう、早苗さん。構わないよ。丁度、お茶を淹れていたところだ」
「ふふ、嬉しい。ハルさんの淹れる紅茶、大好きなの」
私が新しいカップを用意してテーブルに置くと、早苗さんは上品に微笑みながらソファに腰を下ろした。
そして、カップを両手で包み込み一口だけ嗜むと、ふと思い出したように小さく手を叩いた。
「ハルさん、ひまり、今日お暇?」
「うん、私は特に用事はないけど……お母さん、どうかしたの?」
「実は来週、お父さんの誕生日なのよ。十月生まれって、どうにも中途半端で、すっかり忘れるところだったわ」
「あ……そういえばそうだったね」
実の娘であるひまりですら、すっかり頭から抜け落ちていたらしい。
日頃は常盤家の大黒柱として懸命に働く誠だが……平和な日常の中における父親の扱いなど、得てしてこんなものなのだろう。
「せっかくだから、プレゼントを買いに行こうと思って。……ついでに、三人で私たちの冬物でも見て、美味しいランチでもどうかしら?」
目的と手段がいつの間にか逆転しているような気もしたが、私は小さく息を吐いて頷いた。
◇ ◇ ◇
一時間後。
私たちは隣町の、少し大きな百貨店へと足を運んでいた。
誠への誕生日プレゼント選びは驚くほどあっさりと終わり、私たちはそのままの足で婦人服売り場へと向かった。
「わぁ……! ハルさん、その漆黒のロングコート、凄くお似合いです! 神々しすぎて、フロアの照明がハルさんを中心に回っているように見えます……っ!」
「ふふ、本当ね。ハルさん、スタイルが良いから何を着ても絵になるわ。……でも、こっちの白のアンゴラも素敵じゃない? ひまり、合わせてみて」
「えっ、私!? いやいやお母さん、こんな上品なコート、私が着たら服に申し訳ないよ……っ」
「大丈夫よ。ほら、背筋を伸ばして。……ねえハルさん、どうかしら?」
婦人服売り場の大きな姿見の前で、早苗さんがひまりの背中を押し、私に同意を求めてくる。
娘のいない休日は少し静かすぎるかとも思ったが、こうして大人同士での気兼ねない付き合いというのも、存外悪くないものだ。
「……ふむ。ひまりは首元が少し寂しいな。このワインレッドのストールなど、似合うんじゃないだろうか」
早苗さんに促され、私が手近にあったストールをひまりの首に巻いてやると、彼女は顔を真っ赤にして固まった。
「は、ハルさんのお見立て……っ!? 買います! 一生の宝物にします!」
「試着もしてないでしょう。落ち着きなさい」
暴走しそうになるひまりを早苗が淡々とたしなめる。この辺りは、幾つになっても親子という事だろう。
そんな二人のやり取りを見ながら、私は少しだけ微笑んだ。
◇ ◇ ◇
上層階のイタリアンレストラン。
買い物を終えた三人が、百貨店の上層階にある少しお洒落なお店でランチを楽しんでいた時のことだ。
数席離れたテーブルから、その神々しい三人組を食い入るように見つめている影があった。
妙にエンカウント率が高い、あの仲良し主婦二人組である。
「ちょっと、見てよあれ。ハルさんと、この前一緒にいたひまりさんって人じゃない? ……もう一人いるあの綺麗な人、誰かしら」
パスタを巻く手を止め、若い主婦が声を潜める。
「ああ、早苗さんね。ひまりちゃんのお母さんよ」
向かいに座るベテラン主婦が、食後のコーヒーを飲みながら慣れた様子で答えた。
「お、お母さん!? え、ちょっと待って、この前ひまりさんは、若く見えるけど30代前半って言ってたわよね、じゃあ早苗さんは……?」
「確か……今年で五十って前に言ってたわね」
「ご……五十!? あの人が!? あの見た目で、そんなのあり得て良いことじゃないわよ、ウソって言ってよ!!」
「だから言ってるじゃない。あの界隈の時間は、私たちとは違う流れ方をしてるのよ」
いつものように一人でパニックを起こす若い主婦。だが、今日の彼女の混乱は、単なる『年齢と外見のバグ』だけには留まらなかった。
「……待って。待って待って。ちょっと私の頭を整理させて」
若い主婦はこめかみを押さえ、ブツブツと呟き始めた。
「ハルさんと、ひかりちゃんは『親子』よね? それがご近所の共通認識だし、ハルさんがお母さんなのは間違いないのよね」
「そうね」
「でも、ハルさんは黒髪の絶世の美女……いえ、女神。そして、ひかりちゃんは薄い茶髪の、可愛らしい美少女。……全然似てないのよ」
「まぁ、父親似なんじゃないの?」
「そこよ!!」
若い主婦は身を乗り出し、ベテラン主婦に迫った。
「あの早苗さんって人と、ひまりさんと、ひかりちゃん! あの三人、髪の色も顔立ちも雰囲気も、恐ろしいくらいにソックリじゃない!! どう見ても『早苗さん→ひまりさん→ひかりちゃん』っていう、完璧な直系の遺伝子を感じるわよ!?」
「……言われてみれば、まぁ、似てるわね」
「なのになんで、ひかりちゃんのお母さんが、黒髪で全く似てないハルさんなのよ!! あの家族、家系図どうなってんの!? ハルさんは後妻!? じゃあひかりちゃんの本当のお母さんは……まさか、あのひまりさん!? でもひまりさんは三十代前半だし、ひかりちゃんは高校生……年若く産んだ計算に……っ!!」
一人で勝手に点と点を繋ぎ合わせ、そして真実に掠りながらも常識の壁に阻まれ、勝手に脳をショートさせる若い主婦。
そんな彼女の暴走を止めるように、ベテラン主婦はコーヒーカップを置いて呆れたように息を吐いた。
「残念ながら、私は昔ハルさんがショッピングモールの授乳コーナーでひかりちゃんにおちちあげてたの、見てるから。ひかりちゃんのお母さんがハルさんなのは動かないわよ。……あなたの考えすぎね」
「……えっ? じゅ、授乳……?」
「そうよ。あんな綺麗な人が赤ちゃんに母乳あげてる姿、まるで聖母マリア様みたいでよく覚えてるわ。だから後妻とか、そういうんじゃないわよ」
「じゃ、じゃあやっぱりハルさんの実の子……!? でも遺伝子が……ああっ、もう! 若さもバグってるし、美の基準もバグってるし、遺伝子の法則もバグってるし、あの人たちを見てると私の常識が崩壊していくわ……っ!!」
「崩壊してるのは騒ぎすぎて崩れてるあんたのメイクよ。……遠い親戚だって言ってたし、先祖返りでしょ。ほら、冷める前に食べちゃいなさい」
頭を抱えて一人で悶え苦しむ若い主婦を尻目に、ベテラン主婦は呆れたように息を吐いた。
そんな、数メートル先で巻き起こっている昼ドラ顔負けの考察劇など露知らず。
当の主役たちは、誠さんへのプレゼントが入った紙袋を足元に置き、優雅なひとときを満喫していた。
「ん、この魚介のフリット、とても美味しいね。……ひまりも食べてみるかい?」
「ああっ……! ハ、ハルさんからの『あーん』……っ!? 無理です、そんな致死量の尊さを公衆の面前で摂取したら、私ここで昇天してしまいます……っ!」
「はぁ。二人とも、本当に仲が良いわねぇ……」
そうして、私たちは、美味しいランチと穏やかな休日の時間を、心ゆくまで堪能していくのであった。
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