銀幕の女優。輝くは舞台。
秋晴れの空の下、見慣れない装飾で彩られた校舎は、むせ返るような熱気に包まれていた。
「あ、あのっ……! もしよかったら、これ、受け取ってください……っ!」
中庭を歩いていると、模擬店の前で顔を真っ赤にした男子生徒から、震える両手でチョコバナナのクレープを差し出された。
今日の私の装いは、細身の黒いタートルネックにトレンチコート、頭には大判のシルクスカーフという出で立ちだ。
(顔を隠した今の私を特定する方法は、無い。つまりこれは、不特定多数に向けた試食という訳か。……随分と熱心な様子だし、受け取らないのは逆に失礼だろう)
「ありがとう。頂こう」
私は彼に礼を伝えるため、顔の半分を覆う漆黒の大きなサングラスを指で少しだけずらし、素顔を覗かせて柔らかく微笑みかけた。
「――っっぁ…………(ガクッ)」
直後、男子生徒が白目を剥いて、その場に力なく崩れ落ちた。
(やれやれ。立ったまま気絶するほど疲労が溜まっていたとは……若いうちは無理をしやすいものだ)
とはいえ、冷たい地面に寝かせておくわけにもいかない。
周囲を見渡すと、見回りをしている腕章をつけた教諭の姿があった。私はそちらへ歩み寄り、静かに声を掛ける。
「先生。あちらの模擬店の生徒が、過労で倒れてしまったようだ。手当てをお願いできるだろうか」
「えっ!? あ、はい! すぐに!」
教諭は血相を変えて男子生徒の元へ駆け寄り、「おい、大丈夫か!? しっかりしろ!」と肩を激しく揺さぶる。
だが、気絶しているはずの男子生徒は、なぜか頬をだらしなく緩ませ、まるで天国でも見ているかのような恍惚とした表情を浮かべたままピクリとも動かなかった。
(ふむ。よほど深い眠りに落ちてしまったようだな。ともかく、教諭に任せておけば安心だろう)
門外漢がいても邪魔になるだろうと判断した私は、クレープを片手に静かにその場を後にする。
(よし。今のところ、誰にも正体はバレていないね)
先日の体育祭ではPTA会長としての任に従事しており、少しの慌ただしさを感じていた。……故に、今日は一介の保護者として静かに見て回ろうと、完璧な変装を行なって来たのだ。
――己の周到さを自画自賛しながら、再び歩き出した矢先のことだった。
「……な、何やってるんですかハルさん!?」
背後から驚いたような声が掛かり、振り返ると、救護の腕章をつけたひまりが目を丸くして立っていた。
「なに、学校の様子を少し見てみたくてね。……今から、そこに入ってみようと思っていたんだ」
私はそう言って、二年生の教室を利用したお化け屋敷を指差す。
「あ〜、なるほど……。でも、その格好は……?」
「PTA役員に見つかると、静かに歩けないからね。完璧だろう?」
私が自信ありげに尋ねると、ひまりは額を押さえて深いため息をついた。
「あぁ……はい……。確かにハルさんのミステリアスな魅力は存分に引き出されていますが……それだと変装の意味がないというか、変装ですと主張していると言うか……」
「ふむ? ……とにかく、君も養護教諭の仕事があるだろう。邪魔をしてはいけないからね。また後で」
「あ、ちょ、ハルさん!?」
私はひまりに短く別れを告げ、お化け屋敷へと足を踏み入れた。
暗闇の中を進んでいると、不意に血糊をつけたお化け役の生徒が飛び出してきた。私がサングラス越しに静かに見つめ返すと、なぜか向こうが「ひっ」と短い悲鳴を上げて壁際に避けてくれた。
迫真の演技と細やかな気遣いに、思わず感心してしまう。
そうして校内を歩いていると、すれ違う人々が私を遠巻きにして、何やらヒソヒソと囁き合っていた。
「……ねぇ、誰あの人。オーラやばくない?」
「なんつったっけ、昔の女優……ほら、アレ……ローマの休日の」
「あー、オードリー・ヘップバーンだっけ? 確かに、大スターみたいな雰囲気あるわ」
「いや、でも、顔は見えないのに、何か最近見た覚えあるのよね……」
(……オードリー・ヘップバーン。確か、随分前に亡くなったはずだが。……はて? 誰か似たような女優でも来ているのだろうか)
周囲の視線が、見知らぬ有名人を探して彷徨っている。そのおかげで誰も私をPTA会長だとは気づかないならば、これほど好都合なことはない。
(どうやら、運も私に味方をしたようだね)
私は己の強運に密かに胸を張り、ひかりの合唱の時間が迫る体育館へと足を踏み入れた。
保護者席は満席に近かったが、私が歩みを進めると、なぜか皆がそそくさと道を譲ってくれたおかげで、難なく最前列のど真ん中へ座ることができた。
隣の席の保護者に会釈をすると、何故かビクッと肩を震わせる。不思議に思いながらも、私は意識を切り替え、ただ真っ直ぐにステージを見据えた。
やがて館内の照明がゆっくりと落ち、ステージの幕が上がる。
整列した合唱部の生徒たち。その2列目の中央。そこにひかりの姿はあった。
少し緊張した面持ちで、それでも真っ直ぐに前を見据えている。
(ああ……随分と、大人びた顔をするようになった)
大勢の観客を前に、堂々と立つ娘の姿。
あんなに小さくて、私の後ろを歩いていたあの子が、今や立派に自分の足で立ち、前を見据えている。
その確かな成長に、私の胸の奥がじんわりと温かくなる。
ふと、ひかりの視線が客席の最前列へと向けられた。
そして、周囲の保護者が遠巻きにする中、真っ直ぐに私へと注がれ、ピタリと止まる。
ひかりはわずかに目を見開き、直後、必死に笑いを堪えるように小さく肩を震わせた。
どうやら、完璧に気配を消していたというのに、親子の勘で私だと見抜いてしまったらしい。目敏い娘だ。
私が満足げに一つ頷くと、ひかりも緊張がほぐれたのか、いつもの柔らかい表情を取り戻してくれた。
指揮者の手が振り下ろされ、ピアノの伴奏が静かな体育館に響き渡る。
それに重なるようにして、生徒たちの歌声が波のように押し寄せてきた。
――ひかりの担当する、ソプラノのパート。
その声が館内に響いた瞬間、私は小さく息を呑んだ。
枯れ葉が擦れるようだった昨日の痛々しい声は、もうどこにもない。
秋の空のように澄み切った、どこまでも高く伸びていく、美しい声。
その透き通った歌声を鼓膜で受け止めながら、私は密かに、トレンチコートの襟元から自らの喉にそっと手を当てた。
ひかりから引き受けた痛みの残滓が、ほんのわずかだが、私の喉の奥を焼いている。
ステージの上で輝く娘の声。
悲しみばかりが付き纏うこの力を、娘の晴れ舞台に活かすことが出来た。……それが今は、なんだかとても誇らしいと、そんな気持ちになる。
――やがて曲が終わり、最後の和音が体育館の空気に溶けて消えていく。
一瞬の静寂の後、割れるような拍手が巻き起こった。
ステージの上で、ひかりが紅潮した顔で胸を張っている。
私は誰よりも大きな拍手を送り、娘の晴れ姿をしっかりと目に焼き付ける。そうして、そのまま静かに席を立ち、体育館を後にしたのだった。
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