秋風の魔法
茜色に染まる秋の夕暮れ時。
庭先に置いた七輪から、パチパチとはぜる音と共に、白い煙がふわりと立ち上る。
脂の乗った秋刀魚の皮に焦げ目がつき、香ばしい匂いが秋の冷たい風に乗って鼻腔をくすぐった。
「ハルさん、良い焼き加減ですね! こっちの大根おろしも擦り上がりました!」
「ありがとう、ひまり。……台所のきのこご飯も、そろそろ蒸らし終わる頃合いだろうか」
「はい。豚汁も良い感じに温まってますよ!」
私が団扇でパタパタと煙を払いながら答えると、ひまりが七輪の傍にしゃがみ込み、網の上の秋刀魚を見つめて喉を鳴らした。
「あとは、ひかりちゃんが帰ってくるだけなんですが……今日は遅いですね〜」
「文化祭が近いからね。クラスの準備と合唱部の練習の板挟みで、休む間もないそうだよ」
「高校生になって初めての文化祭ですからね。気合いが入るのも分かりますけど……」
ひまりが苦笑交じりにそう言った、まさにその時。
ガラガラ、と重たげに玄関の引き戸が開く音がした。
「……ただいまぁ……」
家の中に響いたのは、いつもの弾けるような声ではなく、まるで枯れ葉が擦れ合うようなカスカスの声だった。
私とひまりが顔を見合わせ、連れ立って土間へ向かうと、そこには鞄を床に引きずりながら、今にも倒れそうな足取りで靴を脱ぐひかりの姿があった。
「おかえり、ひかり。……随分と声を枯らしているじゃないか」
「お母さん……。もう、ダメ……声帯が家出、した……」
「毎日遅くまで歌っていれば、そりゃあ声帯も家出したくなりますよ」
ひまりが呆れたように、けれど柔らかく笑う。
「んん……? すっごく……いい匂いがする……。秋刀魚……?」
「ああ。きのこご飯と豚汁もあるよ。手を洗ってきなさい」
私がそう告げた瞬間、ひかりの背筋がピンと伸び、死んだ魚のようだった目にパッと光が宿った。
「やったぁ! すぐ手洗ってくる!」
先ほどまでの疲労困憊はどこへやら、ドタバタと嬉しそうに洗面所へ駆け込んでいく。
「やれやれ」
私はその背中を見送りながら、食卓に料理を並べるべく台所へと戻っていった。
数分後。常盤家のダイニングテーブルには、完璧な秋の布陣が敷かれていた。
パリッと焼き上がった秋刀魚の塩焼きには、すだちと大根おろし。
湯気を立てるきのこご飯。そして、根菜がたっぷりと入った豚汁。
「「「いただきます」」」
手を合わせた直後、ひかりが箸を突き出したのは、迷うことなく秋刀魚だった。
器用に身をほぐし、大根おろしをたっぷりと乗せて口に運ぶ。
「……んんっ!! 美味しいっ……!!」
枯れた声で感極まったような叫びを上げ、すぐさまきのこご飯をかき込む。
「ふふっ。美味しいのは分かるけど、そんなに慌てて食べたら小骨が刺さるよ?」
「だってお腹空いてたんだもん! クラスの出し物準備で忙しいし、合唱のパート練でずっと高音出しててお腹ペコペコだったの!」
姉のように優しく窘めるひまりをよそに、ひかりの箸は止まらない。
「そうか。それは大変だったね」
「うん……でもね、劇の背景、すっごく綺麗に塗れたんだよ! 合唱も、最後の方はみんなのピッチがピタッと合って、すっごく鳥肌立ったの!」
口をもぐもぐと動かしながら、今日一日の出来事を身振り手振りで語るひかり。
その顔は確かに疲労の色が濃いが、それ以上に、充実感と熱に満ちていた。
私は静かに相槌を打ちながら、自分の秋刀魚に箸を入れる。
口に広がる、ほろ苦い綿の味と、豊かな脂の甘み。温かい豚汁が、冷えた身体にじんわりと染み渡っていく。
この秋の味覚が、すり減った娘の体を労い、明日を駆けるための活力へと変わっていく。……その事実が、より一層味を引き立てている、そんな風に感じられた。
「お母さん、ご飯おかわり!」
「はいはい。ほら、お茶碗を貸しなさい」
「あ、お母さん! ハイは一回だよ! 前も言ったでしょ〜」
文句を言いつつも空っぽの茶碗を突き出してくるひかりに、私は思わずふわりと笑みを零す。
そして、お櫃から炊き込みご飯をこんもりと山盛りにしてよそい、その手に渡してやった。
◇ ◇ ◇
夕食の後片付けが終わり、秋虫の声が響く静かな夜。
居間でくつろいでいたひかりの隣に、私はそっと湯呑みを置いた。
「わ、生姜のいい匂い……。それに、甘い匂いもする」
「生姜と蜂蜜のお湯割りだよ。少し喉を休めなさい」
「お母さん特製だ! えへへ、ありがとう」
ひかりが両手で湯呑みを包み込み、ふうふうと息を吹きかけてから、ゆっくりと口をつける。
「……んー、染み渡るぅ。喉の奥が、ポカポカする」
目を細め、幸せそうに息を吐き出す横顔を見つめ、私は静かに微笑んだ。
「明日も、歌うんだろう?」
「うん! 明日はいよいよ体育館で、ステージを使った全体練習なの。絶対に成功させたいから」
湯呑みを見つめるひかりの瞳は、秋の夜空の星のようにキラキラと輝いていた。
「……そうか。楽しみにしているよ」
「まかせて! 本番は一番前の席で見ててね!」
そう言いながら、ひかりがコクンと喉を鳴らして生姜湯を飲み込む、まさにその瞬間。
彼女の喉に張り付いた痛みとかすれを、ほんの少しだけ『身代わり』として私の内へと引き受けた。
「……あれ?」
ひかりが不思議そうに小首を傾げる。
「どうかしたかい?」
「ううん。なんか急に、喉のイガイガが引いた気がして。お母さんの生姜湯、魔法みたい!」
「……そうかい。それは良かった」
少しだけ掠れそうになる声を上手く抑え込みながら、私は柔らかく微笑み返した。
そのまま自分のほうじ茶を啜ると、引き受けた分の痛みが、私の喉の奥をかすかに焼く。
「……」
ひかりが静かに、再び生姜湯に口をつけた後、じっと私の顔を下から覗き込んできた。
「……お母さん。いつもは『痛みを覚えるのは大事だよ』って言うのに」
「はて……何の話だろうね」
「……膝を擦りむいた時も、頭ぶつけてたんこぶ作った時も、熱を出した時も、絶対使ってくれなかったくせに」
からかうような口調とは裏腹に、かすれの薄れたその声には甘い喜びが滲んでいた。
私はほうじ茶の湯呑みを置き、そっぽを向くように視線を窓の外へと逃がす。
――痛みを知ることで、人は学び、成長していく。だからこそ、私は安易にその痛みを奪うような事はしなかった。だが……。
「特製の生姜湯が、よく効いただけだろう」
「ふふっ。そういうことにしておくね」
とぼける私の腕に、ひかりが嬉しそうに身を寄せてくる。
引き受けたかすかな痛みを愛おしく感じながら、私は開け放たれた窓から、冷たい夜風の吹く秋の空を見上げる。
そこに、甘く、香ばしい秋の匂いが、夜風にふわりと溶けていくのを感じながら。
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