拾い集める者
秋晴れの空の下、白熱する体育祭のグラウンド。
その熱気から少し離れた場所に設置された救護テントで、私は天を仰いで心の中で絶叫していた。
(ハルさぁん! お願いですから、もう勘弁してくださいぃぃぃっ!!)
午前中からすでに、ここは野戦病院さながらの有様だった。
次から次へと運び込まれてくる男女問わぬ生徒と保護者たち。皆一様に顔を火照らせ、胸を押さえてうわ言を繰り返している。
「ひまり先生……俺、もうダメです……。あの微笑み……神々しすぎて、息が……」
「……わかるわ。その気持ち、痛いほどわかる。私も毎日拝んでるもの。でもね、今は深呼吸! ほら、熱中症じゃないからしっかりしなさい! あっちのコットで頭冷やして!」
「胸が……締め付けられるように苦しくて。俺、もう『お母さん』じゃないと……」
「君の性癖は聞いてないわ! 次、そこの君、経口補水液飲んで!」
完全にキャパシティを超えた急患の数。私は汗で額に張り付いた髪を乱暴に払いながら、休む間もなくテントの中を駆け回っていた。
原因は分かりきっている。
私は救護の準備があるため今朝は早くに家を出たが、状況証拠から察しはついていた。
ひかりの要望で、いつも以上に『可愛らしさ』を強調した装いでグラウンドに現れたであろう、私の敬愛してやまない絶対的な存在――ハルさんだ。
(ああもう……! 私もハルさんの尊いお姿をこの目に焼き付けて、あの子たちと一緒にグラウンドでバタバタ倒れたいのに……っ! ……いえ、ダメよ。私にはこの学校の生徒たちを守る、養護教諭としての誇りがあるんだから!)
崇拝者としての欲望を奥歯で噛み潰して封じ込め、私は次々と運ばれてくる急患の処置に全力を注いだ。
やがて、午前中の全競技終了を告げるアナウンスが響き渡った。
待ちに待った昼休み。だが、私に休む時間など一秒たりとも与えられなかった。
「ひまり先生! あっちの木陰でも、お母様方が数名倒れてます!」
「分かったわ! 車椅子持っていくから、そこで待たせて!」
お弁当の包みを開く余裕など到底ない。
水分補給すら忘れ、ふらふらになりながらグラウンドを駆けずり回っていた時、ふと、本部テントの特等席が目に入った。
そこには、PTA役員たちがSPのように等間隔で立ち並ぶ絶対的な防波堤の中で、優雅に黒革の玉座に座るハルさんの姿があった。
その隣には、ひかりと一緒に特大の重箱のお弁当をご馳走になっている結衣ちゃんと静音ちゃんの姿も見える。
遠目からでもわかる。二人はハルさんの手料理の『魔力』に再び絡め取られ、夢中になって次々と箸を進めていた。特に静音は、今にも昇天しそうな恍惚の表情を浮かべている。
(あああっ……! ズルい、ズルいズルい! 私だってお腹空いてるのに! 私だってハルさんの作った極上の卵焼き食べたいのにぃぃっ!)
嫉妬と空腹と疲労で、目から血の涙が出そうだった。
そんな私の悲壮な視線など知る由もなく、ハルさんは和やかにお昼休みを満喫している。
そして――あろうことか、防波堤の外でゾンビのように群がっている男子生徒たちを見かねたハルさんが、傍らの役員に何かを指示したのが見えた。
役員が涙ぐみながら冷たい麦茶の入ったピッチャーを掲げ、外の男子生徒たちへと歩み寄っていく。
(待ってハルさん! その子たちは熱中症じゃないの! そんなモノを振り撒いたら……!)
――次の瞬間。グラウンドに地鳴りのような歓声が響き渡った。
「「「おおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉッッッ!!!」」」
生徒たちがまるで神の奇跡を目の当たりにした信者のごとく狂喜乱舞し、一杯の麦茶を押し戴いている。一口飲んでは「ありがてぇ……」とその場に泣き崩れる者まで続出していた。
(ああぁぁぁぁっ! ダメぇっ! ハルさん、ストップ!! お願いだからこれ以上、無自覚に慈愛を刺さないでぇぇぇっ!!)
私の悲痛な心の叫びと同時に、救護テントに数名の保健委員が血相を変えて駆け込んできた。
「ひまり先生! ダメです、PTA本部の前で、男子生徒が十数名、泡を吹いて一斉に倒れました! もうコットもブルーシートも足りません!」
「…………ッッ」
思わずその場に膝から崩れ落ちる。そんな私をよそに、遠く離れた玉座の上のハルさんは、バタバタと倒れゆく生徒たちを見て、不思議そうに小首を傾げていた。
「……もう、勘弁して下さい……」
ハルさんには、自分がどれほど人を惹きつけるのか、微塵も自覚がない。
……結果、その被害者の対応をすべて押し付けられている私の身にも、本当になってほしい。
◇ ◇ ◇
夕刻。
秋の陽が傾き始めた頃、阿鼻叫喚の嵐が吹き荒れた体育祭は、どうにか無事に全日程を終了した。
ひかりのクラスは総合優勝には届かなかったものの、皆、泥だらけになりながらも清々しい笑顔を浮かべていた。
最後の後片付けと戸締まりを終え、私が幽霊のようにふらふらとした足取りで学校の正門を出ると、そこにはすでに帰り支度を終えたハルさんとひかりが、並んで私を待ってくれていた。
「お疲れ様、ひまり。……随分と顔色が悪いが、大丈夫かい?」
「ひまりちゃん、お疲れー! 今日すっごく忙しそうだったね!」
「……ええ、お陰様で。救護テントは一日中、謎の急患で大パニックでしたよ……」
私が完全に生気を失った顔でジト目を向けると、ハルさんは不思議そうに眉を寄せた。
「そうなのかい? やはり、残暑が厳しかったから熱中症が多かったのかな。ひまりも無理をして倒れないように気をつけるんだよ」
本気で私を心配してくれている、その純粋で温かい瞳。
その原因の百パーセントが貴女の極上の笑顔のせいです、という言葉は、到底口に出すことは出来なかった。
「……ええ、気をつけます。ありがとう、ハルさん」
私が顔を引き攣らせながら誤魔化すと、ハルさんは安心したようにふわりと微笑み、私の持っていた荷物を自然な動作で受け取ってくれた。
隣を歩くひかりが、「えへへ、今日のお母さん、すっごく大人気だったんだよ!」と自慢げに胸を張る。
「本当に……PTA会長としての威厳が保てていたかは分からないがね」
「間違いなく、『格』は保てていたと思いますよ……」
ハルさんは少しだけ困ったように眉尻を下げていたが、やがて隣で笑うひかりを見て、ふっと口元を綻ばせた。
「……組織の長としては、不合格かもしれないがね。それでも、今日はひかりが喜んでくれた。……ならば、母親としては上出来だろう」
夕日に染まるその横顔には、ただ愛する娘の成長を喜び、家族との時間を大切に想う、一人の母親としての不器用で温かな愛情だけが滲んでいた。
(……ズルい。あんなに私を過労死寸前まで働かせたくせに、こんな優しい顔を見せられたら、何も言えなくなっちゃうじゃない……)
「……ええ、もちろんです。最高の自慢のお母さんでしたよ。……少し、破壊力が高すぎましたけどね」
「うんうん! 世界一可愛いお母さんだった!」
「ふふ、二人とも大袈裟だね」
夕日に照らされた帰り道。
私の言葉に照れくさそうに笑うハルさんと、無邪気にハルさんの腕に抱きつくひかり。
その光景を見ると、救護テントでの地獄のような苦労など、一瞬で吹き飛んでしまう。
少しだけ冷たくなった秋の風の中、私は僅かな呆れと、それ以上の深い愛情を抱きながら、大切な家族と共に、我が家への帰路についた。
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