きっと明日も
八月の末。夏休みの最終日。
高く澄んだ空には少しだけ秋の気配が混じり始め、窓から吹き込む風も、どこか心地よい涼しさを帯びていた。
「夏休みも、今日で終わりか〜」
縁側に一人腰掛け、私はふうっと息を吐き出した。
学校から出されていた夏休みの課題も早々に終え、残りの日数は、家族との大切な時間を過ごしたり、友人との思い出を作ったりと、充実した夏を満喫しきったという達成感がある。
ただ、こうして何もない最終日の午後を迎えると、どうしても祭りの後のような、少しの寂しさが胸を過るのも事実で。
「まぁ、こういうのも悪くないよね……」
静かな感傷に浸ろうとした、その時だった。
ブブッ、と。
手元のスマートフォンが、けたたましいバイブレーションの音を立てた。
画面を見ると、いつもの四人のグループトークに、結衣ちゃんからのメッセージが滝のように流れ込んできている。
『ヤバイヤバイヤバイ!』
『夏休みの宿題終わってない、ひかり大先生助けて!泣』
『神様仏様ひかり様! 一生のお願い!』
画面越しに泣きつくようなスタンプが連打され、私は目を丸くしたあと、「仕方ないなぁ」と苦笑し、『うちにおいでよ』と返信を打った。
◇ ◇ ◇
「ひかりぃぃい! ガチのマジで助かった!!」
それから数十分後。
常盤家のリビングには、大量のテキストとプリントを抱え、半泣きで転がり込んできた結衣ちゃんの姿があった。
「もう、あれだけ早めに終わらせようねって言ったのに!」
「いや、とりまお祭り終わってから本気出すっしょって思ってたんだけど、気づいたら今日で……マジ終わったと思ったし」
ダイニングテーブルに広げられた真っ白な問題集の山を見て、私は小さくため息をつく。
しかし、泣きそうになっている友人を放っておくわけにもいかない。私は腕まくりをして、隣の席に腰を下ろした。
「ここは公式に当てはめるだけだよ。ほら、一学期の最後の授業でやったところ」
「えっ、どゆこと? 日本語でおk」
「もー、結衣ちゃん。ここはね……」
――ピンポーン、と。
そんなやり取りを始めてから二十分ほど経った頃だろうか。玄関のチャイムが家の中に響いた。
お母さんが静かに扉を開け、来訪者を中へと招き入れる。そうしてリビングに顔を現したのは、テキストを胸に抱えたみゆきちゃんと、静音ちゃんだった。
「ウッソ!? 二人ともなんでいんの!?」
結衣ちゃんが目を丸くして叫ぶと、みゆきちゃんが申し訳なさと開き直りが混ざったような顔で笑う。
「結衣、グループライン見てなかったの? ひかりちゃんがOK出したちょっと後に、私も半分残ってるから便乗させてって送ったじゃん」
「えっ、マジ!? 必死すぎてスマホを鞄に放り投げて家飛び出したから、全然見てなかった……てか静音ちゃんは?」
「ふふ、ひかりちゃんからSOSが来たの。二人の相手をいっぺんにするのは大変だから、助っ人をお願いって」
「流石静音っち! てか、みゆきも終わってなかったとかマジウケるんだけど〜」
「結衣の『手つかず』と私の『残り半分』を一緒にしないでよー!」
わあわあと騒ぎ立てる二人を見て、私と静音ちゃんは顔を見合わせてクスリと笑った。
静かだったはずの夏休みの最終日は、一転してさらに慌ただしく、賑やかなものへと変わっていく。
そこへ、キッチンからお母さんが大きめのトレイを運び、冷えたグラスとクッキーの盛り合わせをテーブルの端に置いた。
「冷たい麦茶と、おやつだよ。……しっかり糖分を補給して、励むといい」
「あ、ママさん! マジありがとうございます!」
結衣ちゃんはさっそくクッキーを一枚口に放り込み、カッと目を見開いた。
「……ヤバ、今日のオヤツもメッチャ美味しい! これ、絶対ママさんの手作りっしょ、お店のより全然美味いし! ヤバすぎ、無限に食える!」
興奮気味に絶賛する結衣ちゃんに、お母さんは「お粗末さま」と柔らかく微笑む。
その隣では、すっかり『お母さん信者二号』と化している静音ちゃんが、尊いものでも扱うように両手でそっとクッキーを受け取っていた。
「お、お邪魔してすみません。あの……いただきます……っ」
ドギマギしながら小さくかじりついた瞬間、口いっぱいに広がるバターの香りと優しい甘さに、静音ちゃんはぽぉっと幸せそうに頬を染め、お母さんへ熱烈な尊敬の眼差しを向けている。
「いただきます……!」
みゆきちゃんも嬉しそうに手を合わせる。友人たちの元気な声に頷き、お母さんは再び本を手に取って少し離れたソファへと腰を下ろした。
「ああっ、また計算合わない! ひかり先生、ヘルプ!」
「見せて〜。……あ、ここ、マイナスが抜けてるよ」
「み、みゆきちゃん、ここは括弧の中から先に計算するんだよ……?」
「うわぁぁん、静音ちゃんごめんー!」
消しゴムのカスが散らかり、時折結衣ちゃんとみゆきちゃんの悲鳴が上がり、その度に私と静音ちゃんが丁寧に解き方を教えていく。
ソファで本をめくるお母さんの静かな気配と、テーブルを囲む四人の喧騒。
気づけば、窓から差し込んでいた日差しはすっかり赤みを帯び、リビングは茜色の夕焼けに染まり始めていた。
「――お、終わったぁぁぁ……ッ!」
「わ、私も……なんとか……」
最後のプリントに答えを書き込み、結衣ちゃんとみゆきちゃんが力尽きたようにテーブルに突っ伏した。
その手には握りしめられたシャーペンが光り、やり遂げたという確かな疲労感が漂っている。
「お疲れ様。二人とも、なんとか間に合ってよかったね」
「静音ちゃんもお疲れ様。手伝ってくれてありがとう」
私と静音ちゃんも肩の力を抜き、ふうっと安堵の息を吐き出した。
一人で静かに終わるはずだった夏休みの最終日は、友人たちのSOSによって、あっという間に過ぎ去った。これで、明日からはまたいつもの日々……そう思った瞬間。
「……沢山頑張ってお腹も空いたろう。良ければ、夕食も食べていくといい」
いつの間にかキッチンに立っていたお母さんが、静かにそう声をかけた。すでにコンロの奥からは、ふわりと食欲をそそる温かい匂いが漂い始めている。
「えっ、マジですか! ママさんのご飯まで!? 最高すぎる!!」
「あ、ありがとうございます……ハルさんのお料理、とっても楽しみですっ」
「わぁ、本当ですか!? 前にいただいたご飯、すっごく美味しかったから……また食べられるなんて嬉しい!」
疲れも吹き飛んだように結衣ちゃんが歓声を上げ、静音ちゃんとみゆきちゃんが嬉しそうに深く頭を下げた。
「余り過剰に期待はしないで欲しい所だが……。親御さんには、キチンと連絡するんだよ」
「「はーい」」
そうして、お母さんの厚意に甘え、賑やかな食卓をみんなで囲んだ後。
「ひかりちゃん、静音ちゃん、今日はマジでありがとね! ママさんもごちそうさまでした! じゃ、明日、学校で!」
「ほんと、二人とも助かった! また明日ね!」
「お、おじゃましました……!」
スッキリとした笑顔で帰っていく友人たちの背中を見送ると、私はパタンと玄関の扉を閉めた。
急に静かになったリビングへ戻り、テーブルの上を片付けようとしているお母さんの背中へと、そっと声をかける。
「お母さん……今日はごめんね。急にみんなで騒がしくしちゃって。その上、夕食まで……いっつも迷惑かけちゃって……」
私の申し訳なさそうな声に、お母さんは器を重ねる手を止め、静かに振り返った。
「……いいんだよ」
いつもの淡々とした口調。けれど、私を見つめるその眼差しには、ふわりと温かな光が宿っている。
「謝ることなど、なにもないさ。……ひかりの日頃の頑張りが友人を助けたんだ、素晴らしい事じゃないか」
「でも……」
なおも食い下がる私の頬をそっと撫でながら、お母さんは言葉を紡ぐ。
「ひかりが友人と仲睦まじく過ごしているのを見るのは、親としてとても嬉しいことだよ。――だが、そうだね。……もし、今度同じようなことがあった時は、別の形で助けてあげるといい」
「……別の、形?」
「ああ……困っている友に手を差し伸べられるのはとても素晴らしい事だ。……だがね、直接助ける事が、常に相手の為になるとは限らない」
「……」
「相手を真に慮るのであれば、時には忠言も必要になる。……だけど、一方的に押し付けてもいけないよ。相手の視点に立ち、気持ちに寄り添い、一緒に、問題に取り組んであげるんだ。――ひかりなら、分かるね?」
「……うん」
「なら、私からはもう何も言うことはないよ。……今日は、よく頑張ったね」
そう言いながら、私の頭を優しく撫でてくれるお母さん。
静かで、けれど真っ直ぐな愛情に満ちた言葉。
私に必要な助言をした上で、しっかりと肯定してくれているその言葉の端々から、自分がどれだけ深く見守られ、大切にされているかが伝わり、瞳の奥がじわりと熱くなる。
「……ああ、因みに、夕食に関してだが……。ひまりが、学校が始まる前にやらないといけない仕事を残していたせいで、今日は実家に缶詰になったからね。材料が半端になる所だったし、タイミングも良かったのさ」
「アハハ、ひまりちゃんらしいね! ……ありがとう、お母さん。大好きっ!」
そう言うや否や、私は真正面からその胸へと飛び込むように抱き着いていた。
「……おや」
突然のことに、お母さんはわずかに目を丸くして身を揺らした。けれどすぐに、私の背中へとお母さんの綺麗な手が回され、優しく包み込むようにそっと添えられた。
「えへへ……。あのね、私、今日で夏休みも終わりかってちょっと黄昏れてたんだ。でも、みんなが来てくれて、お母さんの美味しいご飯を食べて……すごく、楽しかった」
「良い日に……良い夏休みになったね」
「うんっ!」
――友達と笑い合い、慌ただしく過ぎていく一日は確かに楽しくて。でも、家族だけで静かに過ごすのも、それもきっと素敵で。
たとえ、どちらだったとしても……私にとっては、『良い日』なのだ。
「……よし! 私も明日の準備をしよっと」
私はパッと腕を解いてお母さんの胸から離れると、弾けるような笑顔を見せた。
開け放たれた窓から、涼しい夜風がそっと私の頬を撫でていく。
夏が終わる寂しさは、いつの間にか、新しい季節への期待へと変わっていた。
それはきっと……明日も『良い日』になると思わせてくれる友の存在と、優しい母のおかげだろう。
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