夕暮れ時のやさしさを
ガタン、ゴトン。
心地よい一定のリズムを刻みながら、夕暮れ時の海岸線を走る帰りの列車。
車窓から差し込むオレンジ色の夕陽が、まばらな乗客のシルエットを長く引き伸ばし、車内をノスタルジックな色合いで染め上げている。
「……すぅ、すぅ……」
ひまりの肩にこつんと頭を預け、ひかりが気持ちよさそうに寝息を立てていた。
一日中、容赦のない真夏の太陽の下ではしゃぎ回り、全力で海を満喫したのだ。無理もない。
ひまりは肩口から伝わる温かな重みに優しく微笑むと、向かいの席に座るハルへと声を潜めて語りかけた。
「ふふ……ひかりちゃん、すっかり眠っちゃいましたね」
「……よっぽど、楽しかったのだろう」
ハルは窓枠に軽く寄りかかりながら、夕陽に照らされたひかりの無防備な寝顔に静かな視線を落とす。
「今日は本当に、色々なことがありましたね。綺麗な海で泳いで、海の家ではたくさん食べて……その後も、浮き輪でぷかぷか流されたりして」
「……ああ。少し、はしゃぎすぎたかもしれないね」
「ふふ、そんなことありませんよ。ハルさんと一緒に遊んでひかりちゃんも楽しそうでしたし。……まぁ、一個だけ余計な介入がありましたけど」
「そういえば、そんな事もあったね。……私としては……あの時見せたひかりの心根の方が……重要だよ」
取るに足らない事だとでも言わんばかりのハル。それよりも、ハルにとってはその後の娘の様子の方が印象に残っていた。
ひまりが、思い出し笑いをするように小さく息を吐いた。
「そうですね……。自分たちに危害を加えようとしたあの愚か者たちでさえ、本気で心配していましたから。……本当に、呆れるほどに優しい子です」
「……全く……だね」
ハルは静かに相槌を打つ。
「ふふっ。きっとこの子の優しさは、ハルさん譲りですね」
「……いいや……この子の……想いは、この子だけの、もの……さ……」
(……ああ、だけど、この子の優しさは……)
――昔から、本当に何も変わっていない。
ハルは内心にそんな思いを浮かべながら、ゆっくりと瞼を落とす。
「……ハルさん?」
繰り返される規則的な列車の揺れと、遠ざかる波の音。それらが静かに優しく、ハルを微睡みの底へと誘っていった。
「……ふふ。ハルさんも、お疲れ様です」
◇ ◇ ◇
閉じた瞼の奥、落ちた微睡みの先で、ハルは懐かしい過去の夢を見ていた。
――それはまだひかりが、彼女の腰の高さにも満たないほど幼かった頃の記憶だった。
いつか二人で訪れた、人気のない夕暮れ時の静かな海辺。
波打ち際を歩いていた幼いひかりが、ふと足を止め、砂浜を見つめてしゃがみ込んだ。
視線の先には、潮が引いた後の乾いた砂の上に取り残され、ぐったりと首を垂れた一匹の小さな亀の姿があった。
助かる見込みはない。
ハルにとって、それはありふれた『自然の摂理』だった。
海で生まれ、海へ還れなかった命は、そのまま砂に還る。ただそれだけの、あるがままの光景。
「……お母さん、亀さんどうしたの?」
身動ぎもしない亀を、心配そうに見つめるひかり。
「……寿命、あるいは運命というものだよ。そのまま見送ってあげなさい」
ハルは静かに、けれど揺るぎない事実としてそう告げた。
だが、幼いひかりは亀から目を離さないまま、ハルの服の裾を小さな手できゅっと強く握りしめた。
「お母さん……亀さん、助けてあげられないの?」
見上げられたその瞳には、今にも零れ落ちそうな大粒の涙が浮かんでいた。
「零れる命を掬うことは、本来自然の摂理に逆らうことなんだよ……」
それは、自分自身に対する自戒の言葉でもあった。
あらゆる嘆きの因果に囚われ、他者の痛みを『身代わり』になって引き受けてきた過去。自らのその行いに疑問を持つことすら無く、空っぽのまま、自然の摂理を尽く捻じ曲げてきた。
――だからこそ、自らの意思を確立した今、力の行使には慎重になるべきだ、と。
「ぐすっ……」
小さな亀をそっと包み込むようにしながら、涙を流す我が子。
――この子の想いは、どうだろうか。
彼女はなんの因果も背負っていない。目の前の命を慈しみ、ただ純粋に助けたいと願っている。
自然の理を曲げてまで命を救おうとするなど、それは幼さゆえの浅慮かもしれない。
だけど――それでもその根底にあるものは、彼女の中の『優しさ』だ。以前の自分とは違う、この子なりの確かな意思。……ハルは、その娘の優しさを、決して無碍にはしたくなかった。
確かに、自らが命の行方を決めるなど、烏滸がましいのかもしれない。或いは、傲慢だと誹りを受けるのかもしれない。
それでも……因果に縛られていただけの自分が、この子の小さな身体を抱いたあの日から……。
――ハルは、ひかりの、『母親』なのだ。
ハルは静かにしゃがみ込むと、乾ききった亀の小さな甲羅にそっと手を触れた。
そのまま、亀を縛り付けていた渇きと疲労を、そっと引き受ける。
己の身に微かな重みを感じるのと引き換えに、息を吹き返した小さな命は、力強く砂を蹴って、青い深みへと帰っていった。
「あ……見て、泳いだよ! えへへ、亀さんよかったね〜。お母さん、ありがとうっ!」
涙で濡れた顔のまま、太陽のように笑う幼いひかり。
その眩しすぎる笑顔を見た瞬間、ハルの胸の奥に、言葉では言い表せないほど温かく、柔らかな感情が満ちていったのを覚えている。
(……ああ、この子の『母親』で、本当に良かった)
◇ ◇ ◇
「……ん、んぅ……」
微かな衣擦れの音。
肩に預けられていた小さな重みがゆっくりと動く気配に、ひまりがハルの寝顔から視線を落とした。
ひかりが目をこすりながら、とろんとした瞳を開けていたところだった。
「あ……ひかりちゃん、おはよう。まだ着かないから、もう少し寝ていても――」
ひまりの優しい囁きを遮るように、ひかりは向かいの席を見つめたまま、ふにゃりと柔らかく微笑んだ。
「……あ。お母さん、笑ってる」
寝ぼけ眼のまま呟かれたその言葉に、ひまりは弾かれたように視線を上げる。
夕陽に照らされた向かいの席。
微睡みの中にあるハルの口元には、ほんのわずかに、けれどとても優しく、温かな弧が描かれていた。
「……本当。とっても、幸せそう」
ひまりは囁き返し、ひかりと顔を見合わせてふすっと笑い合う。
ガタン、ゴトン。
オレンジ色に染まる海沿いを走る列車の中。
奇跡のような寝顔と、それを見守る二つの笑顔。
どこまでも優しく、静かな夏の終わりが、三人を乗せてゆっくりと揺られていく。
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