『日常』の形
二人の姿が見えなくなった後、家の中へと戻ると、先ほどまでの賑やかさが嘘のように静まり返っていた。
だが、その静寂は決して冷たいものではない。
ほんのりと漂う朝餉の残り香や、ひかりが慌ただしく身支度を整えた洗面所のわずかな水はねが、家の中に確かな生活の体温を残している。
私は袖を捲り上げ、まずは、と食卓の片付けから始めた。
カチャカチャと、手際良く洗い終えた食器を籠に並べていく。
そうして、最後にひかりのお気に入りであるマグカップを洗い終え、ひと息つく。
「ふぅ……次は掃除機を……」
これからの予定を考えながら一歩を踏み出そうとした瞬間、今しがた洗い終えたひかりのカップが目に入る。
そのカップの向こうにいつも明るい彼女の笑顔を見たのか……或いは、少し温かめのお湯に気持ちが引っ張られたのか……食器を洗っただけなのに、なんだか心の奥がポカポカしてくるような気がした。
「そろそろ学校に着いた頃かな……」
先程別れたばかりの彼女の背中を思い出しながら、自らの過去にも幾ばくかの思いを馳せる。
悠久とも呼べる時間を生き抜いてきた私だが……その歩みの中で、このように穏やかな時を過ごしたことは無かった。
私に救いを求めるものは皆、深い深い絶望の檻の中に閉じ込められており、その『身代わり』として私が檻の中に入ると、足早に私の元を去って行くのだ。
故に、私の『日常』とは、嘆き・苦しみ・悲しみが常に横たわるものであり、誰かの温もりに寄り添うものとは無縁だった。
今こうして、誰かのために洗剤の泡を転がし、お気に入りのマグカップを丁寧にゆすぐような日々を『幸せ』だと感じられるなど、十五年前にひかりを授かるまでは想像すらしえないものだった。
「『幸せ』、か……」
ぽつりとこぼれたその言葉を、舌の上で転がすようにゆっくりと反芻する。
かつては想像すらできなかった、このありふれた日常。数千年の孤独を対価にしてようやく辿り着いたこのぬくもりを、私はきっと、世界の何よりも愛している。
自然と緩んでしまう口元をそっと引き締め、私は感傷を振り払うように、次の家事へと意識を向けた。
『母親』という役割を引き受けてから十五年。概念から作り変えられたこの肉体は、いつしか家事という日常の儀式を、呼吸と同じように自然なものとして受け入れていた。
掃除機をかけ、洗濯物を干しにベランダへ出る。
3月の風はまだ少し冷たいが、差し込む陽光は確かに春を告げていた。
パンパン、とシーツを叩いて広げる。隣の家からは、庭の手入れをするひかりの祖母――つまり、ひまりの母親である早苗の鼻歌が微かに聞こえてきた。
空になった洗濯籠を手にしたとき、ふと、自分の陶器のような手が目に入る。
十五年という月日が流れても、この器は一切の『劣化』を拒絶し、刻まれるべきはずの年輪を刻まない。
いつだったか、ひかりに尋ねたことがある。
『ねえ、ひかり。歳を取らない私のことを、変だと思わないかい?』
すると彼女は、私の両手を小さな手でぎゅっと包み込み、満面の笑みでこう答えたのだ。
『変じゃないよ! 皆お母さんのこと、若くて美人だねって言うし……私、お母さんのスベスベで綺麗な手、大好き!!』
その時の屈託のない笑顔が、ふわりと脳裏に浮かぶ。
マグカップを洗ってはあの子の笑顔を想い、学校に向かう背中を思い返しては、過去の言葉を噛み締めている。
「……これでは、ただの親バカだな」
私は小さく息を吐き、自嘲気味な笑みをこぼした。
今は、あの子のために料理を作り、家族の衣服を整えるための手。
どこにでもある平凡な主婦としての、代わり映えのしない午前中。
「……さて。買い物にでも行くとしようか」
独り言をこぼし、私はエプロンを外した。
冷蔵庫の中身を確認し、今夜の献立を組み立てる。ひかりが好きな豚の角煮がいいだろう。
今日という愛おしい日を彩るための食材を求めて、私はゆっくりと玄関へ向かった。
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