いってらっしゃい
お椀に注いだ味噌汁から、白い湯気がゆるやかに立ち上る。
その向こう側に透けて見えていた十六年前の雪の夜の記憶は――
パタン、と。
洗面所の扉が閉まる音によって、ふっと熱に溶けるようにして消え去った。
引き戻された意識の先にあるのは、いつも朝の風景。その動きの端々に中学生らしい瑞々しさを湛えたひかりが、さっぱりとした顔で戻ってくる。
「お待たせー! あ、今日の味噌汁、なめこ? やったぁ、私これ大好きなんだよね」
ひかりは嬉しそうに椅子を引き、私の隣の席へと滑り込む。
ダイニングテーブルの反対側では、ひまりが自分の湯呑みを置いて、微笑みながら私たちを見守っていた。
「さて、食べようか」
私がそう促すと、両手を合わせるひかりとひまり。
「「いただきます」」
重なる二つの声。ひかりが勢いよくお椀に口をつけるのを横目で見ながら、私はふと、彼女の頭頂部で元気に跳ねている毛束に気がついた。
「……ひかり。身だしなみを整えたのだろうけれど、まだ寝癖が立っているよ」
「えっ、嘘!? ちゃんと水で濡らしてブラシしたのに!」
ひかりが慌てて頭頂部を押さえる。
しかし、彼女の柔らかな薄茶色の髪は、一度ついた癖をそう簡単には手放してくれないらしい。
「もー……。お母さんは、いっつも寝癖なんてつかないよね。起き抜けから髪はサラサラだし、お肌もツヤツヤだし。……私のお母さんながら、本当に綺麗すぎてずるい」
ひかりは少し恨めしそうに、私の顔をじっと見つめてきた。
光を吸い込むような漆黒の髪。一七〇センチを超える身長と、一切の劣化を拒むこの器。
「全くだよ、ひかりちゃん! ハルさんは本当に、毎朝起きてくるたびに女神様が降臨したのかと思うくらいお美しいんだから……っ!」
ひかりのぼやきに、対面のひまりが前のめりで食いついた。
三十代を迎え、立派な高校の養護教諭となった彼女だが、私へ向ける熱狂的な信仰心だけは年々拍車がかかっている。
「……ひまり、君も寝癖がついているよ」
「えっ」
ひまりの動きがピタリと止まった。
ハッとして頭に手をやると、ひかりと全く同じ位置に、同じような毛束がぴょこんと跳ねている。
「あ、あはは……! ほんとだ、ひまりちゃんも私とお揃いじゃん!」
「うぅ……っ、恥ずかしい……。ハルさんの前で完璧な私でいたかったのに……」
無邪気に笑うひかりと、顔を真っ赤にしてうつむくひまり。
ひまりの面影を色濃く映すひかりの身長が、一六〇センチを超えてすっかり彼女に追いつきつつある今、こうして並ぶ二人の輪郭は驚くほどに重なって見える。
(……美しいのは、君たちが並んで座っている、その光景だよ)
私は心の中でそっと呟き、口元に小さな弧を描いた。
「ごちそうさまでした!」
「ごちそうさまでした。……本当に美味しかったです、ハルさん」
「お粗末さま。……二人とも。出かける前にちゃんと歯を磨いて、そのお揃いの寝癖も直してくるんだよ」
「あ、はーい!」
「……は、はいっ」
二人は連れ立って洗面所へと向かっていった。
シャカシャカというリズミカルな歯磨きの音。鏡の前で互いの髪を撫でつけ合い、クスクスと笑い合っている声がリビングまで届いてくる。
私は空になった食器を片付け、カウンターの上に用意しておいたお弁当を二つ手に取った。
身だしなみを整え終えた二人に、私はお弁当を差し出す。
「ほら、お弁当を持っていきなさい」
「わーい、ありがと!」
「ああっ、今日のお昼もハルさんの手作り……。このお弁当箱、家宝にします……っ」
ひまりがまた天を仰ぎそうになったので、私は無言で彼女の背中を玄関へと促した。
「忘れ物はないかい。二人とも車に気をつけて」
「うん、大丈夫! 行ってきます、お母さん!」
「行ってきます。ハルさん、また夕方に!」
「ああ、いってらっしゃい」
頷きながらそう返すと、二人は玄関から元気よく飛び出し、並んで歩き出す。
私は一拍置いた後に外に出ると、その二人の後ろ姿をじっと見つめる。
朝日の中で重なり合う二つの影は、同じ薄茶色の髪をなびかせ、とても美しく調和していた。
その光景を、愛おしむように、二人の姿が見えなくなるまで、眺め続けた。
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