母の祈り
夕食の片付けを終え、リビングのテーブルでくつろいでいた時のことだ。
机に突っ伏したひまりの口から、今日何度目かわからない、深く重いため息がこぼれ落ちた。
「はぁ……」
「もぅ、ひまりちゃん。ため息何回目〜? 幸せ逃げちゃうよ?」
対面の席で麦茶を飲んでいたひかりが、呆れたように頬を膨らませる。
しかし、今日のひまりに気の利いた冗談を返す余裕はなかった。ふと目を閉じれば、じりじりと焼けるようなアスファルトの匂いと、ひしゃげたガードレール、そして足元から響いた無邪気な声が、ベッタリと脳裏に張り付いて離れないのだ。
昼間、あの交差点で遭遇した怪奇現象に、ひまりはすっかり気持ちをヤラれてしまっていた。
「お盆だからね。そういうこともあるさ」
「お盆だからって……そんなこと、あっちゃたまりませんよう……」
ひまりの弱々しい抗議に、ハルは静かに視線を向ける。
「彼の世と此の世の境が曖昧になると、どうしても出やすくなるのさ。最も……アレは、あちらにも行けずに彷徨い続ける哀れなモノだがね」
グラスの氷をカランと鳴らしながら、ハルが淡々と告げる。
ひまりの深刻な怯えとは対照的に、その声はどこまでも静かで、夏の夜の空気に溶けるように凪いでいた。
「あそこに近づかなければ、特に危険は無い。アレはあそこに縛られているからね」
「なんの話? お母さんとひまりちゃん、さっきから怪しいんだけど」
事情を一切知らないひかりが、グラスを両手で持ったまま、不思議そうに二人を交互に見比べる。
怖い話が極端に苦手なひかりのために、ひまりはあえて黙っていようと決めていた。だが、身を乗り出して「ねえ、何があったの?」と何度も聞いてくるひかりの勢いに圧され、ついに折れてしまう。
「実はね……」
昼間の出来事を、極力おどろおどろしくならないよう言葉を選んで話した。
しかし、どれほどオブラートに包もうとも、「とうの昔に死んでいるはずの子供が足元にいた」という事実はごまかしきれない。話し終えた瞬間、ひかりは耳を塞いで涙目になっていた。
「ひまりちゃんのバカぁ! なんでそんな怖い話するのぉ!?」
「ひかりちゃんがしつこく聞いてきたのに……!」
理不尽に怒られて唇を尖らせるひまりを他所に、ひかりは「お母さん、怖いよぅ」とハルの腰にすがりつく。
ハルは「よしよし、大丈夫だよ。ここにまでは来られないからね」と、怯える娘の背中を一定のリズムで優しく撫で、いつものように甘やかしていた。
その温かな光景を見つめながら、ひまりはふと、日中に感じた純粋な疑問を口にする。
「でも、なんであんなにハッキリ見えたんでしょう。私、別に霊感とか無いですし、こんな経験なんて今まで一度も無いのに……よっぽど強い、悪いお化けだったってことですか?」
「想いが強いのは勿論だが……」
ハルはひかりを撫でる手を止めず、静かに視線を落とした。
「結局のところ、原因は私だろうね」
唐突なその言葉に、ひまりが瞬きを繰り返す。
「そういった因果を引き寄せやすいのは昔からだが……『母』になってからは、めっきり子供ばかり引き寄せるようになってしまってね。怖がると思って今までは黙っていたんだが、君たちが気がついていなかっただけで、私達は何度も遭遇しているよ」
「え……?」
「公園のブランコの隣や、スーパーの片隅でね。ただ私が目を合わせないようにしていただけさ」
淡々と、まるでそこにいるのがさも当然かのような調子で、ハルはとんでもない事実を口にした。
「ひっ……!」
その言葉の軽さに、ひまりとひかりは同時に短い悲鳴を上げ、揃って震え上がる。
自分たちの知らないところで、何気ない日常の風景の中で、すでに何度も「それ」とすれ違っていたのだ。
ひまりは引きつった笑みを浮かべながら、必死の思いである確認を投げかけた。
「し、週末に予定している、あの……家族での海水浴は、大丈夫なんですよね……? 海って、そういうのが多いってよく聞きますし……」
「さぁ? 勝手に寄ってくるモノで、私にどうこう出来る訳ではないからねぇ。波打ち際に立っている子供が、全員生きているとは限らないし」
ハルは悪びれもせず、小さく肩を竦める。
涼を取るための、楽しい家族での海水浴。
それが、物理的ではない全く別の意味で背筋が涼しくなりかねない予感に、二人はなんとも言えない、絶望的な表情を浮かべるしかなかった。
「さて、そろそろ寝るよ。夜更かしは毒だ」
ハルはそう言って席を立つと、いつもの静かな足取りで自室へと戻っていった。
それぞれ「おやすみなさい」を交わし、ひまりも自分の部屋へと引き上げたが――やはり、一人で布団に入ってじっと暗闇を見つめていると、昼間の「お姉ちゃん」という無邪気な声が耳の奥で蘇ってくる。
耐えかねたひまりは枕を抱え、足音を殺して廊下を歩き、ハルの部屋の扉をそっと開けた。
だが、そこにはすでに先客がいた。――ベッドの中、ひかりがハルの身体にピタリと張り付いている。
ひまりは情けない顔のまま、いそいそとハルのベッドへと近づき始めた。
「……怖くて、今日は一人じゃ眠れない、です……」
そう言うやいなや、ハルの返答も待たずにひまりはダブルベッドの中、ひかりの反対側に陣取った。結果、両脇を二人に固められたハルは、横たわったまま深く、静かなため息をこぼした。
「やれやれ……結局、こうなるのかい」
呆れたようなハルの言葉。
しかし、その言葉に返答は無く、代わりにひかりがハルの右腕に力いっぱいしがみつく。それを見たひまりもまた、ハルの左腕を抱きしめるように掴み取る。
身動ぎも出来ないハルだが、ふっと小さく息を吐いただけで、結局なすがままに二人を受け入れた。
――しばらくすると、両サイドから規則正しい穏やかな寝息が聞こえ始める。
「……ゆっくりと、おやすみ」
その言葉は、両側で眠る愛しい家族に向けていながらも、ここでは無い何処か遠くへも届けている。そんな響きが含まれていた。
それは、昼間に見たあの哀れな親子へ向けた、静かな祈りのようであり……永い時の中で見送ってきた、数多の魂への鎮魂のようでもあった。
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