もりのくまさん
夕食も進み、川で冷やしてあったデザートのスイカを食べ始めた頃、ひまりが何気なく口を開く。
「あ、今更だけど……この辺って熊とか大丈夫かな?」
人と自然の境界線も曖昧になりつつある昨今において、野生の熊は人に危険をもたらす最たるものである。
ましてや、今いるこの場所は、まさに彼らの縄張りそのもの。自分たちこそが侵入者である。
ひまりの疑問は、至極真っ当で当然の心配であった。
「熊かい……? 昼間に出くわしたけど、大人しく山に帰っていったよ」
そんなひまりの言葉に、まるで散歩中に猫でも見掛けたかのような気安さで返事をするハル。
「……はい?」
「え、くまって、あの熊……? お母さん、熊に遭ったの……?」
「ああ、昼間三人の釣果を確認しに行く道すがらね。成獣のツキノワグマだったね」
事もなげに話すハルだが、周囲の面々は野生の熊がすぐそばにいたという事実に、震え上がっている。
「あ、あわわわわ……。ひ、避難しなくて平気なんですか?」
ひまりは真っ青な顔で周囲の暗闇を見渡し、ガタガタと震え声を上げた。
「お、おおおおお……落ち着きなさい、ひまり! いざとなれば家長である私がなんとかして……いや、しかし相手は本物の熊……! や、やはり今すぐ車に避難した方が……っ!」
誠は一家の柱として皆を落ち着かせようと声を張ったものの、手元のスイカにかけていた塩をガタガタと震えながら撒き散らしてしまうほどに、ひまりと同様の激しい動揺を見せていた。
「はぁ……あなたも落ち着いてちょうだい。……驚きはしたけれど、ハルさんが今まで何も言わずにいたってことは、もう大丈夫なんでしょう?」
早苗は目を見開いて驚きつつも、隣で涼しい顔をしてスイカを頬張るハルを見て、すっと息を吐いてみせた。
「そうなの、お母さん?」
ひかりが身を乗り出して尋ねると、ハルはシャリッと赤い果肉をかじり、静かに頷いた。
「ああ。少なくとも、あの個体が私達を襲ってくることはないね。すっかり戦う意志をなくして、森へお帰りいただいたから」
「じゃあ、もう大丈夫なんだね! ねぇお母さん、その時の様子、教えて!」
ひかりの好奇心に満ちた声に、ハルは「ふふ、他愛のない話だがね」と前置きし、静かに語り始めた。
◇ ◇ ◇
キャンプ場から少し離れた森の中。
夕食の魚を釣るべく川へ向かった三人と合流するため、ハルは一人、木漏れ日の落ちる獣道を歩いていた。
ガサガサと前方の茂みが大きく揺れ、小道の中央に巨大な黒い影が立ち塞がる。
野生のツキノワグマであった。
縄張りを侵されたと判断したのか、クマは鋭い牙を剥き出しにし、ハルに向かって鼓膜を震わせるような低い咆哮を上げる。
今にも飛びかからんとする、明確な敵意と野生の闘争本能。
だが、ハルは涼やかな顔でそれを見上げ、小さく息を吐いた。
「……野生の獣相手に手荒な真似はしたくないからね。少しばかり、大人しくして貰おうか」
ハルが静かに発動したのは、彼女の持つ特異な力。
――『身代わり』。
他者の傷やあらゆる事象を肩代わりするその能力の対象として、ハルが今回選んだのは、目の前のクマが放つ『戦意』そのものだった。
向こうから戦う意志を奪い、こちらで引き受ける。
その力が発動した瞬間。
「……くぅ?」
先程まで血走っていたクマの目はみるみるうちに丸く穏やかになり、牙を引っ込め、まるで人に慣れた大型犬のようにペタンとその場にお座りをしてしまったのだ。
完全に戦意を抜かれ、ぽやっとした大人しい顔つきで首を傾げるクマ。
だが、事態はそれで終わらなかった。
問題は、『身代わり』によって強大な野生の戦意を自分の中に引き受けてしまった、ハルの方である。
膨大な闘争本能を注ぎ込まれてなお、ハルの態度は全く変わらなかった。
表情はいつものように静かで、穏やか。張り詰めた様子も、感情の昂りも一切見せない。
――だからこそ、余計に恐ろしいのだ。
平然と佇むその細い身体から、森の空気を軋ませるほどの尋常ならざる『闘気』が、止めどなく立ち昇っている。
静かな態度とは裏腹に放たれる、純度百パーセントの圧倒的な殺気と戦意。
「どうしたんだい? 何を怯えているんだ」
ハルはいつもと変わらぬ、静かで柔らかな声で問いかけた。
しかし、その足が一歩前へ踏み出された瞬間、空間を押し潰すような理外の重圧がクマを直撃する。
「ひぃん……っ」
対するクマは、ただでさえ戦意を喪失している上に、目の前の存在が放つ『態度の穏やかさ』と『オーラの凶悪さ』の矛盾に完全に震え上がり、もはや逃げ出すことすらできずに地面に這いつくばっていた。
恐らく、この時の熊には、微笑むハルの姿が、どんな悍ましい怪物よりも恐ろしく見えていた事だろう。
態度はそのままに、尋常ならざる闘気を垂れ流すハル。
VS
ただただ腰を抜かして震え上がるだけの野生のクマ。
静かな森の奥深くで、絶対的な強者と弱者の立場が完全に逆転した、あまりにも理不尽でシュールな構図が出来上がっていた。
◇ ◇ ◇
「……そうしているうち、熊はなんとか這いずりながら、山の奥に帰って行ったのだよ」
話し終えたハルは事もなげにそう締めくくると、再びシャリッとスイカを口に運んだ。
「熊さんまでひれ伏しちゃうなんて、さっすがお母さん!」
無邪気に称賛するひかりとは対照的に、その時の様子を想像し、思わず熊に同情するひまり。
ハルが時折見せる、神の如き気配。そこに『闘志』が加われば、最早それは『闘神』である。
哀れ、獣風情に太刀打ちできるはずもなく……もし自分が熊の立場であれば、泣いて許しを乞うことすらできず、茫然自失に陥るかも知れない。
むしろ、這ってでも逃げた熊に対して、最大限の称賛を送りたいほどだ。
「と言うわけで、夜襲の心配はないと思うよ」
「そ、それなら、安心、ですね……」
ハルの語るほのぼのとした口調とは裏腹に、事の顛末の裏にあったであろう、あまりにも理不尽でシュールな光景。
それを思い浮かべたひまりは、引きつった笑いを浮かべ、そっと甘いスイカを頬張るしかなかった。
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