もう一つのおしごと
日曜日の午前十時。
ひかりが泊まり込みの勉強会から帰ってくるまで、あと二時間ほど。
常盤家の地下に設けられた、厳重なセキュリティと空調管理が施された専用の仕事部屋で、ハルは静かに息を吐いた。
部屋の長机の上には、桐箱やジュラルミンケースといった、物々しい容器が八つ並べられている。
ハルが持つもう一つの仕事。
それは、歴史ある骨董品や美術品の『修復』である。
事の起こりは十数年前。ある高名な芸術家が、自身の生涯の傑作とも言える作品を不慮の事故で破損させてしまい、絶望の淵に立たされていた時のことだ。
縁あって、幼いひかりを連れてその場に居合わせたハルは、彼の『心』を救うため、その破損を自身の肉体へ『身代わり』として移し替え、作品を完全に元通りに直してみせた。
――最初は、ただそれだけのつもりだった。ハル自身は、歴史的価値に興味は無く、芸術の保存といった大層な使命感なども持ち合わせていなかったからだ。
しかし、その後も幾度か修復の依頼が芸術家から舞い込んで来る。ハルも最初は、それらを全て断っていたのだが……。
『芸術は人の心を豊かにする。人の心を救ってくれるものだ。どうか、人類の宝を守る手伝いをしてくれないか』
そう熱弁されたことで、ハルの心はほんの僅かだけ動いた。
人の心を豊かにし、救うもの。それが巡り巡って、愛するひかりの生きる世界を、少しでも美しく優しいものにしてくれるのなら。
そう考えたハルは、現在でも縁を結んだ芸術家を介した依頼に限り、こうして修復の仕事を引き受けている。
「さて。ひかりが帰ってくる前に、終わらせてしまおうか」
ハルは一つ目の桐箱を開けた。
中に入っていたのは、数百年前に焼かれたという見事な青磁の壺。しかし、その側面には無残な亀裂が走り、一部は完全に欠け落ちてしまっている。
伝統の修復技術である『金継ぎ』などを施せば直るかもしれないが、それでは本来の姿には戻らない。
故に、ハルはハルにしか出来ない方法で、修復を行う。
欠けた青磁の壺に向け、静かに、無造作に白い手をかざす。
「――」
音もなく、光もなく。
ただ、世界から一つだけ『因果』が書き換えられる。
次の瞬間、壺に入っていた深い亀裂は嘘のように消え去り、欠け落ちていた部分も完全に元通りの滑らかな曲線を結んでいた。
焼成された当時の、完璧な姿である。
代償として、ハルの長く美しい髪の『毛先』の一部が、数ミリだけパサリと乾いたように変色し、痛んだ。
人間の怪我や病気を身代わりにする場合、ハルの肉体には同じ場所、同じだけの苦痛と損傷がフィードバックされる。
しかし、物体は人体とは構造が全く異なるため、ハルはある程度、破損を転移させる『場所』を指定することができた。
故に彼女は、切り落とせば済む毛先や、爪の先といった末端部分にのみ、物質の欠損を移し替えているのだ。
ハルは表情一つ変えることなく、次の箱を開ける。
二つ目は、表面が切り裂かれてしまった絵画。
三つ目は、ヒビの入った大理石の彫刻。
四つ目は――。
淡々と、ただ呼吸をするかのような自然さで、ハルは次々と『奇跡』を行使していく。
人類の宝とも呼べる歴史的な美術品たちが、彼女が手をかざすたびに、作られた当時の完璧な姿を取り戻していった。
最後の八つ目の修復を終えた時、ハルの艷やかな爪の先には小さな亀裂がいくつか走り、美しい髪の毛先は少しだけ不揃いに傷んでいた。
「……よし。これで全部だね」
ハルは何事もなかったかのように呟くと、傍らに用意しておいた爪切りと小さなハサミを手に取った。
パチン、パチンと、亀裂の入った爪の先を丁寧に切り落とす。
そして、傷んでしまった髪の毛先を、迷いなくハサミで切り揃えていく。
床に落ちた僅かな爪と髪の毛の残骸こそが、八つの歴史的な美術品が負っていた『致命的な破損』の全てだった。
数分後。
手入れを終えたハルは、いつもの完璧で涼やかな美貌を取り戻していた。
依頼品を再び厳重に箱へと収め、仕事部屋の明かりを落とす。
「……さて。そろそろ、お昼ご飯の仕込みを始めようか」
静かな地下室を後にしたハルは、時計を見上げる。
国宝級の美術品を八つも救済した余韻など、微塵もない。
彼女の意識は既に、もうすぐ帰ってくる愛娘に何を食べさせようかという、母親としての喜びにのみ向けられているのだった。
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