ハルさん『の』衣替え
休日の買い物客が行き交う大通りに面した、洗練された落ち着きのあるブティック。
その店内で、ひまりは腕組みをして深く頷いていた。
「……やはり、世界はハルさんを中心に回っていると言っても過言ではありませんね」
「うん。お母さん、すっごく綺麗……!」
試着室のカーテンが開くたびに、二人の感嘆の声が漏れる。
鏡の前に立っているのは、涼しげな素材で編まれた淡いブルーのサマーニットと、シルエットの美しい白いフレアスカートに身を包んだハルだった。
今日は、ハルの新しい夏服を買い求めるためのショッピングである。
「やれやれ……」
呆れたような小さなため息をこぼすハル。……その理由は、山のように積まれた、目の前の衣装にある。
何故三人がこの場所に居るのか。事の発端は、前日の夕食時にまで遡る。
***
本格的な夏の気配に当てられ、すっかり夏バテ気味の二人。食卓には、二人の食欲が落ちていても食べやすいようにと、ハルが手作りした目にも涼やかな冷やし中華が並んでいた。
その和やかな夕食の最中、話題は先日ハルが済ませた『衣替え』のことに及んだ。
『そういえば、衣替え終わったって言ってたけど……お母さんの服、ずっと変わってないよね?』
ふと、ひかりが箸を止め、ジト目でハルを見つめた。
ハルがひかりの衣服を毎シーズン欠かさず新調し、綺麗に手入れしてくれていることは、ひかりもよくわかっている。だからこそ、気づいていた。自分ばかりが新しい服を与えられ、ハル自身のワードローブが、ここ数年まったく変化していないことに。
『……ん? 傷んでもいないのに、わざわざ変える必要もないだろう?』
ハルは不思議そうに小首を傾げた。
ハルにとって衣服とは、清潔であり、娘の隣を歩くに恥じない品質であればそれで十分という認識だ。事実、物持ちの良いハルの衣服は、殆ど傷んだ様子も無い。
しかし、そのもっともらしい正論は、愛娘によって一刀両断される。
『お母さん、去年も一昨年も同じこと言って、結局新しい服買ってないじゃん! 私の服ばっかり買って……お母さんだって、もっとお洒落していいのに』
少しだけ唇を尖らせて抗議するひかり。その言葉には、自分ばかりが与えられることへの小さな不満と、美しい母にもっと着飾ってほしいという純粋な願いが込められていた。
そして、この絶好の機会を、同居しているもう一人の家族が見逃すはずもなかった。
『ひかりちゃんの言う通りです! ハルさんのその圧倒的な美のポテンシャルを、数年前の服で封印しておくなど人類の損失です! 決まりました、明日はハルさんの夏服を買いに行きましょう!』
身を乗り出して力説するひまり。
『……家の中ですら、あの有様だったのに、本当に大丈夫なのかい? 明日はもっと暑いと予報で言っていたよ』
『ソレとコレとは話が別です。美しいハルさんが拝めるのなら、私は砂漠でも南極でも行ってみせます……!』
『それに、日曜日だからおじいちゃんに頼めば車で連れて行ってくれるよ!』
『……やれやれ』
どちらか片方なら受け流すことも出来たが、二人に揃って懇願されてしまえば、白旗を揚げるしかない。……結局のところ、ハルは、ひかりにはもちろんのこと、ひまりに対してもひどく甘いのだ。
『……わかったよ。明日、買い物に行こうか』
静かに微笑み、二人からの誘いを受け入れるハルの表情は、どこまでも穏やかで、深い愛情に満ちていた。
***
かくして、現在のブティックでの光景に至る。
「お客様……! こちらのワンピースも、間違いなくお似合いになるかと……っ!」
「あ、あの、こちらの新作のブラウスもぜひ当ててみてください……!」
当初はひまりとひかりの二人だけで服を選んでいたはずだった。
しかし、何を着せてもモデル以上に完璧に着こなし、圧倒的な美貌と涼やかなオーラを放つハルを前に、プロである店員たちが放っておけるはずもなく……。自店の服を彼女に最高の状態で着こなしてほしいという、アパレル店員としての熱意と探求心に火がついてしまったのだ。
次から次へと持ち込まれる新作の夏服たち。
試着室のカーテンが開閉するたびに、清楚なワンピース、マニッシュなパンツスタイル、涼しげなリネンシャツと、ハルの姿が美しく切り替わっていく。
その全てが、まるで雑誌の表紙から抜け出してきたかのように完璧だった。
店員たちは息を呑み、ひまりは「眼福です……」と拝むように両手を合わせ、ひかりは目を輝かせて「お母さん、すごい!」と拍手をしている。
もはや店内の一角は、ハルを中心とした一大ファッションショーの様相を呈していた。
「……もう、このくらいで十分だろう」
十着以上の試着を終え、流石のハルも小さくため息をつく。
物理的な暑さには全く動じず、汗一つかいていない彼女だが、これだけの数を着せ替えられては流石に疲れの色を隠せない。
「素晴らしい着こなしでした……! お客様、いかがなさいましょう。どれも大変お似合いでしたが、お気に召したものはございましたか?」
興奮冷めやらぬ様子の店員が、山のように積まれた試着済みの服を示しながら尋ねる。
売上という下世話な理由ではない。自分たちが自信を持って選んだ服を、この完璧な客がどれを選び、どう着こなしてくれるのか。そんな純粋な期待に胸を膨らませているのだ。
しかし、ハルは積まれた服の山を一瞥すると、静かに首を振った。
「いや。……買うのは、この二着だけでいい」
そう言ってハルが視線を向けたのは、一番最初に試着し、別枠のように棚において避けてあった、淡いブルーのサマーニットと、柔らかなシフォン素材の白いフレアスカートだった。
「えっ……? そ、それだけでよろしいのですか?」
店員が驚いたように目を丸くする。ひまりも不思議そうに首を傾げた。
「ハルさん、それだけで良いんですか? ……どれも本当に似合ってましたよ?」
「ああ。これがいいんだ」
ハルは別枠として置かれた二着の服を愛おしそうに見つめ、それから、傍らに立つひかりの頭を優しく撫でた。
「このサマーニットは、ひまりが最初に『絶対に似合う』と持ってきてくれたもの。そしてこのスカートは、ひかりが『お母さんに着てほしい』と選んでくれたものだからね」
「あ……」
「私にとっては、服飾の価値などどうでもいい。ただ、君たちが私を思って選んでくれたという、その事実だけが大切なんだよ」
静かに語られた言葉には、一切の迷いがない。
彼女にとっての『お洒落』とは、他者に美しく見られるためのものではない。愛する者たちが自分に向けてくれた思いを、身に纏うためのものなのだ。
その底なしの愛情と、ブレない価値観の前に、ひまりはまたしても言葉を失い、ひかりは嬉しそうにハルの腰に抱きついた。
「……ほんと、お母さんには敵わないなぁ」
「ふふ。……さあ、お会計を済ませようか。おじいちゃんも車で待ちくたびれているだろうし、皆で美味しいランチでも食べて行こう」
ハルにとって、世界で一番価値のある二着の夏服が入ったペーパーバッグを手にして。
ハルは優しく微笑みを浮かべながら、愛する娘たちと共に、初夏の眩しい陽射しが降り注ぐ街並みへと歩き出すのだった。
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