常盤家の教育方針
六月も頭を過ぎ、少しずつ夏が本格化し始めた頃。
週末の常盤家のリビングでは、二つの影がラグの上にだらしなく溶けていた。
「……あつい。とける……」
「……限界です。可憐なひかりちゃんが隣に居てくれても、この物理的な気温の暴力には抗えません……」
完全に事切れたようにテーブルに突っ伏すひかりと、その傍らで床に大の字になっているひまり。
その地に伏したままのひまりが、リビングに設置された最新鋭の空調設備に、恨めしそうに視線を向ける。人々に涼を届けるはずのその四角い物体は、未だ稼働を許されず沈黙を守ったままだ。
故に、開け放たれた窓から入り込む生温い風と、一定のリズムで首を振る扇風機だけが、この部屋の唯一の生命線だった。
「ハルさん……どうか、どうかエアコンのスイッチを入れてはいただけないでしょうか……。このままでは、愛しのひかりちゃんが……ついでにかわいいひまりちゃんも文字通り溶けてスライムになってしまいます……」
床に張り付いたまま、ひまりはキッチンの奥に居るハルに絞り出すような声で懇願する。
しかし、キッチンの奥から響いたのは、ひどく静かで、一切の容赦がない美しい声だった。
「却下だ」
「無慈悲ッ!?」
「まだ初夏だよ。これから本番なのに、今からそんな調子でどうするんだい」
ピシャリと撥ね退けられる。
この家の絶対的な主であるハルが掲げる、「四季の移ろいを肌で感じることは、とても大切なことだからね」という教育方針の壁は、難攻不落の城壁よりも高く分厚い。
あらゆる時代の、あらゆる場所を回ったハルにとって、鮮やかに色を変える日本の季節の変化は、とても素晴らしいものなのだろう。だからこそ、愛する娘にも、それをしっかりと認識してほしいと願っているのだ。
カラン、と。
絶望するひまりの耳に、涼やかな氷の音を響かせて、リビングにハルが現れた。
お盆には、よく冷えた麦茶と、水滴を纏ったおしぼりが乗っている。
まとわりつくような熱気の中にあって、ハルだけは別次元にいるかのように涼しげだった。
彼女にとって、夏の猛暑も冬の極寒も、自身の完璧な在り方を揺るがす理由にはならない。ただ静かに、そこにある季節を受け入れているだけだ。
「二人とも、だらしないね」
静かな声とともに、ハルはラグの上に沈む二人の傍らに腰を下ろした。
冷たいおしぼりを手に取り、ひかりの火照った額や首筋を、慈しむように優しく拭う。
「ひゃっ……お母さん、冷たくて気持ちいい」
「……全く。少しは暑さに慣れないと、外にも出られなくなるよ」
呆れたように言いながらも、その手つきはひどく甘やかだ。
ひかりは心地よさそうに目を細め、そのままハルの膝へとすり寄った。ハルの体温は、こんな真夏日であっても、ひどく心地の良いひんやりとした静けさを保っている。
その極上の避暑地を、少し離れた場所からひまりが血走った目で見つめていた。
代わってほしい。いや、せめてその空間の端っこでうちわを扇ぐ係になりたい。しかし、今のひまりにはそれを口に出す体力も、這ってそこまで行く気力すら、夏の暑さに奪い去られていた。
「飲みなさい。水分はとても大事だよ」
ハルの静かな声が、床と一体になったひまりに降ってくる。
差し出されたグラスの中で、氷が涼やかに音を響かせる。
「……いただきます」
最後の気力を振り絞り、身体を起こしてグラスを受け取り、冷たい麦茶を喉に流し込む。
「んぐっ……ぷはぁ」
身体の奥底から、ようやく少しだけ熱が引いていくが、窓の外では依然として暴力的な陽射しが世界を焼いている。
ひまりは冷たい麦茶で僅かに潤った喉を鳴らし、ふと、ある疑問を抱いた。
視線の先には、自分の膝でうとうとするひかりの頭を優しく撫でるハルの姿がある。
湿気と熱気で不快指数が天元突破しているこの室内において、ハルの肌にはただの一滴も汗が浮かんでいない。それどころか、涼しげな陶器のようにひんやりとした気配すら漂わせている。
「……あの、ハルさん」
「なんだい?」
「ハルさんは……暑くないんですか?」
思わず口をついた疑問だが、数多の時代と場所を生きてきたハルにとって、このくらいは取るに足らない環境なのかもしれない。
自ら口にした疑問に、一人で納得しかけるひまり。だが、その自らの結論に対し、ハルは不思議そうに小首を傾げて答える。
「? 暑いに決まっているじゃないか」
「…………はい?」
ひまりの思考が、一瞬だけ停止した。
目の前にいる美の化身とも言える存在を、もう一度よく観察する。
涼やかな目元。乱れ一つない呼吸。そして、滴るどころか毛穴の存在すら疑わしい、完璧にサラサラな白い肌。その額には汗一つない。
(どこが!? どの辺が!?)
己の視覚情報とハルの自己申告の間に、マリアナ海溝よりも深い乖離がある。
ひまりは混乱する頭をどうにか働かせ、一つの仮説に行き着いた。
「えっと……それは、何かハルさんの『能力』を使っているから、とか……?」
他者の感情や因果を『身代わり』として引き受ける力。あるいはそれに付随する、人間離れした何らかの力で、この空間の熱をどうにかしているのではないか。
だが、ハルはその推測を静かに、けれどキッパリと否定した。
「ただ暑いからといって、使うようなものではないよ」
ハルは手にしたおしぼりを綺麗に畳み直し、膝で眠る愛娘の寝顔を真っ直ぐに見つめた。
「何でも不思議な力で安易に解決できるなどという考えを持たせることになったら、ひかりの教育に良くないからね。……暑い日は暑いものとして、きちんと肌で感じて、工夫して乗り切る。それを教えるのが、親の役目だろう?」
静かに語られた言葉は、どこまでも正しく、深い愛情に満ちた『母親』としての確固たる教育方針だった。
「…………はい。すみませんでした」
ぐうの音も出ない正論である。
普段であれば、「流石ですハルさん!」「その深い愛情に海よりも深く感動いたしました!」と秒速で全肯定のスタンプを叩きつけるひまりである。
だが、今回ばかりは。
(いや、教育方針は素晴らしいですけど! じゃあ力も使わずに、なんで汗一つかいてないんですか!!)
そう思わず心の中でツッコミを入れるが、それを口に出すことはない。代わりに、言葉を慎重に選びながら、最も解せない核心部分だけを恐る恐る尋ねてみる。
「……あの、ハルさん。お言葉ですが、力を使っていないのに、どうしてハルさんは汗一つかいていないんでしょうか……?」
「? 不思議なことを聞くね。汗をかく必要がないからだろう」
「……必要がない、から?」
「ああ。暑さを認識することと、それに肉体が振り回されるかどうかは別の話だ。それに、私が汗ばんでいては、ひかりが寄り添ってきた時に不快だろう?」
「ええと、それは、ひかりちゃんの為だけに……意識だけで発汗を完全に止めていると……?」
「精神の在り方の問題だよ。暑さに屈しなければ、汗など出ないものさ」
「…………」
涼しげな顔で、さも世界の真理であるかのように言い切るハル。
理不尽だ。圧倒的に理不尽である。
思わず固まるひまりをよそに、ハルは「やれやれ」と小さく息を吐き、再びひかりの額を優しく撫で始めた。
二人の周囲を穏やかな空間が包み込む中、ひまりはただ一人、初夏の熱気とハルという二つの理不尽に納得する事が出来ず、無言で唇を尖らせるのだった。
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