そして、いつもの日常を
公園での昔話を終え、仲良く手を繋いで歩いてきた二人は、やがてハルが待つ家の玄関前まで辿り着いた。
「とうちゃーく!」
「すっかり遅くなっちゃったね。ハルさんに買い物という勅命を受けたのに、お待たせしてしまうなんて……。こうなったら、腹を切って詫びねば。……いざ、行きましょう!」
そう言いながら、ひまりが玄関の扉を開け、その間を抜けてひかりが一歩中へと踏み出す。
「たっだい――」
奥のリビングに向かって声をかけようとしたひかりの背中と、それに続こうとしたひまりの足が、ピタリと止まる。
――三和土のすぐ先、目の前でエプロン姿のハルが、待ち構えるように立っていたからだ。
「……おかえり。デートは楽しかったかい?」
ハルの穏やかな声とともに、ふわりと温かい空気が頬を撫でる。奥からは微かに、バターとコンソメの食欲をそそる香りが漂ってきていた。
「あ、お母さん! ただいま!」
ひかりのその弾むような声に、微笑みで返すハル。
その笑みには、周囲の空気を清浄なものに塗り替えられていくような、圧倒的で絶対的な優しさと美しさが備えられていた。
休日を満喫し、夕食の買い出しを終えて帰ってきた自分たちを、生活の匂いがするエプロン姿であえて玄関で待っていてくれる――その不意打ちのような状況を完全に認識した瞬間、ひまりの思考は完全にショートした。
「……ッ!!」
手にしていた雑貨屋の袋を握る手にギリッと力が入り、空いた片手で、ひまりは自らの胸元をガシッと鷲掴みにする。
「ひ、ひまりちゃん!? どうしたの、急に苦しそうに……っ」
「だ、大丈夫……ただの、致死量の尊さによる……一時的な心不全、だから……ッ」
「……心不全に一時的なんてものはないよ、ひまり」
静かに、しかし的確にツッコミを入れるハル。だが、限界を迎えているひまりにはその冷静な『声』すらご褒美でしかない。心配するひかりに息も絶え絶えに答えつつ、ひまりはカッと目を見開き、ワナワナと震えながら早口で捲し立てた。
「帰宅した瞬間、最も無防備で家庭的なエプロン姿のハルさんが、わざわざ玄関まで足を運んで出迎えてくださるというこの『状況』……! 過酷な外界から帰還した者を、女神が天界の入り口で直接労ってくださるかのような、この圧倒的なまでの慈愛の構図……! ああもう、私の穢れた靴でこの聖域に足を踏み入れるわけにはいきません……! 今すぐ全身を塩で清め、この玄関の扉にしめ縄を張って封印しなければ……ッ!」
玄関先で己の妄想にむせび泣くひまりを前にしても、ハルは全く動じることなく、やれやれと呆れたように小さく息を吐いた。
「……勝手に玄関を聖域に変えないで貰えるかい、ひまり」
「しめ縄もよく分かんないけど……。でも、ひまりちゃんの言う通り、お母さんが玄関で待っててくれたの、すっごく嬉しいし、エプロン姿もいつも通り似合ってて可愛いよ!」
「ありがとう。……その様子だと、二人とも十分に満喫できたみたいだね」
ハルは、ひかりの鞄からはみ出ている映画のパンフレットと、ひまりが抱える雑貨屋の袋に視線を落とし、静かに微笑んだ。
「うんっ! すっごく楽しかった! ひまりちゃんがエスコートしてくれたから! ちょっと私のこと心配し過ぎだったけど……」
「……それは、ひまりはひかりのことを、何よりも大切に思っているからだよ。……ひまり、ありがとう」
「ッ……ハルさん……! もったいなきお言葉……! 私、これからも命に代えてひかりちゃんをお守りします……ッ!」
敬愛してやまないハルからの、己が役割に対する最大の理解と労いの言葉。ひまりは感極まったように顔を覆い、その場に崩れ落ちそうになる。
そんな騒がしくも微笑ましいやり取りのあと、ひかりは持っていた重いエコバッグをよいしょと両手で持ち上げた。
「お母さん、はいこれ! 頼まれてたドリアの材料!」
「ありがとう、ひかり。重かっただろう。……さて、それじゃあ私はこれで仕上げをするから、二人は先にお風呂を済ませておいで」
「はーい!」
「はいっ! 私も実家でお風呂を済ませて音速で戻って参ります!」
「……急がなくていいから、しっかり温まってきなさい」
ひかりからエコバッグを受け取り、キッチンへと向かうハル。その凛とした背中を見送ったひまりは、宣言通り音速で身を清めるべく、「では!」と踵を返して隣の実家へと小走りで向かっていった。
◇ ◇ ◇
やがて、一同が会したダイニングテーブルに並べられたのは、黄金色に輝く特製ドリアだった。
オーブンから出されたばかりの熱気と共に、焦げたチーズとホワイトソースの、圧倒的なまでに食欲をそそる香りが広がる。
「わぁあっ……! すっごく美味しそう!」
目を輝かせるひかり。
「さあ、冷めないうちに食べるといい」
「「いただきます」」
ハルの言葉を合図に、スプーンを入れる。
熱々のチーズがとろりと伸び、一口頬張れば、濃厚な旨味と深いコクが口いっぱいに広がった。
「んんっ……! 美味しいっ、お母さんのドリアは格別だよ!」
「ハ、ハルさん……ッ! この輝く黄金色のチーズの海……! 一口食べた瞬間、脳天を突き抜けるような旨味の奔流に意識が飛びかけました……ッ! この料理には最早、神そのものが宿っていると言っても過言ではありません……! 私の血が、いや細胞のすべてが、今この瞬間チーズになって溶け出しそうです……ッ!」
ひかりが無邪気に称賛の声を上げる横で、ひまりはスプーンを握りしめたまま天を仰ぎ、感動に打ち震えながら熱弁を振るう。
反応こそ違えど、共に美味しいと言って食べる二人に、ハルは優しく微笑む。
「二人とも、大袈裟だね。でも、喜んでくれて良かった」
そんなハルの微笑みに、再び昇天しかけるひまりだが……ふと、初夏の熱気を逃がすために少しだけ開け放たれた窓の外へと視線が向く。
ゆっくりと夜の帳が下りていく、淡く、吸い込まれそうな黄昏時の闇の中。
それを見ていると……いつの間にか目が離せなくなっていた。
……この闇の向こう側。暗黒の世界には、あの日の野良犬のような予期せぬ危険や、あの男のような――理不尽な存在が、何処かしこに潜み、牙を隠している。
けれど、この家の中だけは違う。
ハルという絶対が座し、ひかりという眩しい太陽が笑い、私は月のようにその傍らに寄り添う。
――これでいい。これがいい。
それは遠い日の思い出。公園の砂場で手に入れた、確かな答え。
器とスプーンが触れ合う音。
弾むような会話。
そして、それらを優しく包み込むハルの微笑み。
この平穏を守れるなら――私は命すら掛けられる。
そんな思いが胸を渦巻き、手が止まっていたひまりに、ハルがそっと声を掛ける。
「ひまり、手が止まっているよ……熱かったかい?」
「あ……い、いえ! 余りの美味しさに、魂が天の川をいったり来たりしていただけです! 大丈夫です!」
ひまりは促されるように眼前の熱いドリアに再び手を伸ばし、口に運ぶとゆっくりと咀嚼する。
「……本当に、美味しいです……」
「……そうかい」
そう言って、ひまりに優しげな眼差しを向けるハル。全てを包み込むようなその瞳に見つけられると、自然と涙が零れそうになる。
――今自分の目の前にある、『いつもの日常』。
ひまりはその真の『尊さ』と一緒に、ハルの作ってくれたドリアの温かさを、しっかりと噛み締めるのだった。
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