境界線
スーパーでの買い物を終えた帰り道。
傾き始めた西日が、二人の歩く歩道に長く細い影を落としていた。
「ねぇひまりちゃん、この公園、懐かしいね!」
ひかりが指差したのは、帰り道の途中にある少し大きめの公園だった。
導かれるように公園の中へと視線を巡らせるひまり。
幾度となく足を運び、数え切れないほどの時間を一緒に過ごした場所。ベンチの配置も、塗装の剥げたブランコや滑り台も……そして、その奥にある砂場も。どれも目を瞑っていても思い浮かぶほど、二人にとって馴染み深い景色だった。
「昔、この公園でひまりちゃんにいっぱい遊んでもらったよね!」
「……ふふ。ひかりちゃん、あのお砂場が大好きだったから」
「うんっ。ひまりちゃんが作ってくれたお砂のお城、すっごくかっこよくて嬉しくって」
えへへ、と無邪気に笑うひかり。その屈託のない笑顔を見つめながら、ひまりはそっと目を細め、遠い日々に思いを馳せるように「懐かしいね」と深く、優しく頷いた。
楽しい過去の思い出を語るひかり。……けれど、今ひまりの脳裏に浮かんでいるのは、ひかりが覚えているよりもっと昔――彼女がまだ物心つく前の記憶だ。
こうして、今は当たり前のように隣に立ち、互いの温もりを感じ合えるようになった距離感。……その切っ掛けとなった、遠い日。
夕暮れの公園の中、砂場には楽し気な親子の姿が見える。
幼い子供が「おかあさん」と無邪気に呼び、その声に答えるように母親が微笑み返す。そんなやりとりが、ひまりの意識を、少しだけ過去へと引き戻していくのだった。
◇ ◇ ◇
あれは、ひかりが三歳になったばかりの頃。
この公園に三人で遊びに来て、ハルさんが飲み物を買いに少し席を外した時のことだった。
視界には砂場で一人遊ぶひかりの姿。ひまりは、それを遠巻きに、ベンチからぎこちなく見つめていた。
僅か数メートルの間に有る、透明で、だけど分厚い壁。
時間をかけ、あの男の影を見ることなく、ひかりを『ひかり』という一人の人間として、受け入れられるようにはなった。
けれど……どう接すればいいのか、適切な距離感が、まったく分からなかったのだ。
ひかりの『母親』はハルさんだ。自分が母親だ、などと口にするのは烏滸がましい。
だが……それでは、『自分』は、なんなのだろうか。
確かに、ひかりにはひまりの血が流れている。髪の色も、顔立ちも、自身の面影をそこかしこに感じる。
だが、血は繋がっていても『親子』にはなれない。
勿論、決して『他人』などではない。
確かに感じる血の繋がりと、どこまでいっても付き纏う不確かな関係性。それがひかりとの間に、不器用な境界線を引かせていた。
そして、それはハルという繋ぎ手が不在となったことで、より明白になる。
何処からか響く親子の話し声。それが、二人の距離の遠さをより鮮明に際立たせているように感じる。
砂場とベンチ。ほんの僅かの間。だけどそこには、重く、息苦しいほどの空気が横たわる。
時折、ひかりが振り向いて何かを期待するように視線を向けてくる。
だが、ひまりは強張った顔で、ただ小さく頷き返すことしかできなかった。
――気が付くと、風が止んでいた。
木々のざわめきがふっと途切れ、奇妙なほど冷たい静けさが落ちる。
直後、周囲からざわめきが起こる。
犬だ。……どこから迷い込んだのか、首輪の付いていない野良犬が、公園に現れたのだ。
周囲が混乱に陥る中、野良犬は砂場にいる小さなひかりに狙いを定め、低い唸り声を上げながらじりじりと距離を詰めてきた。
当のひかりは、近づいてくるそれを不思議そうに見つめ、「わんわん?」と小首を傾げている。迫り来る牙の危険性に、三歳の幼子はまだ気付いていなかった。
ハルさんは、いない。
次の瞬間、ひまりの体は理屈を通り越して勝手に動いていた。
『――っ、ひかりに、近づかないでっ!』
ベンチから弾かれたように、叫びながら駆け出した瞬間、足がもつれて不様に転倒する。
擦りむいた膝からじわりと血が滲むが、ひまりは痛みに顔をしかめることすらなく、転がるようにして我武者羅に砂場へと飛び込んだ。そのまま、ひかりの小さな体を抱え込んで自らが文字通りの盾となる。
『ガァウッ!!』
獲物を阻まれた野良犬が、鼓膜を裂くような声で吠え立てた。
その獰猛な音に、ひかりがビクッと身をすくませて、腕の中で震えるのが伝わってくる。
ひまりは腕の中のひかりをさらに強く抱きしめ、獣に抗うように、射抜くような眼光で睨み返した。
『……!』
決して、この子には触れさせない。
放たれた無言の圧力と、異常なまでの執念に気圧されたのか、野良犬は数歩後ずさると、やがて踵を返して公園の外へと走り去っていった。
事態が収束し、静寂が戻る。
我に返ると、自らの腕の中にはすっぽりと収まっている小さな体がある。そこでひかりの存在を改めて認識し、ひまりはピタリと固まった。
どうしよう。
今まで、まともに触れることすらできなかったのに。
どんな顔をして、どうやって声を掛ければいいのか分からない。
遠くから飲み物を買ったハルさんが慌てて駆け寄ってくるのが見えたが、ひまりは泥だらけの姿のまま、戸惑いで身動き一つ取れずにいた。
しかし。
犬の咆哮に怯え、腕の中で小さく震えていたはずのひかりが、恐る恐る顔を上げる。
少しだけ血の滲んだひまりの膝と、泥だらけになった顔を交互に見つめ――やがてその無垢な瞳に、キラキラとした憧れを宿して、こう言ったのだ。
『ひまりちゃん、すっごくつよい! わたしをまもってくれる、おねえちゃんみたい!』
――おねえちゃん、みたい。
『あっ……』
胸の奥で、ストン、と。
まるで、音を立てる様に、何かが落ちていった。
母親には、なれない。それは、決して許されない。
けれど……母親でなくても、痛みも厭わずこの子を全力で守ってあげることはできる。『姉』のように、ハルさんとは違う立場から、この子のそばに寄り添い、導いてあげることはできる。
そうだ……自分はただ、この子の『盾』になればいいのだ。それが、自分に許された唯一の役割なのだ。
自身の存在を、この子の隣にいる意味を、ようやく肯定することができた。
張り詰めていた糸がふっと切れ、瞳からポロリと一粒の涙がこぼれ落ちる。
『……っ』
泥だらけの腕で、今度は戸惑うことなく、強く抱きしめる。
『ひまりちゃん……? どうしたの、どこか痛いの?』
心配そうに顔を覗き込んでくるひかりに、ひまりは静かに首を横に振る。
大丈夫。ごめんね。ありがとう。
その声にならない声を何度も発しながら、ひまりはその温もりを確かめるように、只々ひかりの小さな体を、いつまでも抱きしめ続けるのだった。
◇ ◇ ◇
「……ひまりちゃん? どうしたの?」
不意に顔を覗き込まれ、ひまりはハッと我に返った。
こちらを見上げているひかりの瞳は、あの日の記憶と同じように、どこまでも真っ直ぐだ。
「ううん、なんでもないよ」
ひまりはいつもの調子で明るく笑顔を見せると、買い物袋を片手に持ち直し、空いた手でひかりの小さな手をしっかりと握りしめた。
「さぁ、帰ろっか。早くこの材料を渡してあげないと、ハルさんの作る、あの眩い輝きを放つ特製ドリアが完成しないからね」
「うんっ! わたし、お腹ぺこぺこ!」
太陽が沈みかけ、空が深い琥珀色に染まっていく。
ひまりは、繋いだ手から伝わる確かな鼓動を感じながら、愛おしい存在とともに、ハルさんが待つ家へとゆっくり歩き出した。
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