世界一のケーキ
六月三日、夜。
常盤家のリビングには、いくつものご馳走の香りが混ざり合い、幸福な空気が充満していた。
テーブルの中央には、ハルが腕によりをかけて作り上げた色鮮やかな料理が所狭しと並べられている。
肉汁が溢れるふっくらとしたハンバーグに、こんがりとチーズに焦げ目がついた熱々のマカロニグラタン。彩り豊かな新鮮な野菜と生ハムのサラダに、瑞々しいフルーツの盛り合わせ。
そして極めつけに、その隣には誠が意気揚々と買ってきてくれた特上の寿司桶までが鎮座している。
「わぁっ……! すごい、すっごく美味しそう! でも、こんなにいっぱい食べきれないよ……!」
帰宅したひかりがパタパタと洗面所から駆け込んできたが、豪華すぎる食卓を見て目を丸くする。
「ははは! 残った分は明日も食べれるさ。今日はひかりの誕生日なんだから、気にせずいっぱい食べなさい」
誠が上機嫌に笑いながらそう言うと、ひかりの顔にパッと大輪の花が咲いた。
「うんっ! お母さん、ひまりちゃん、おばあちゃん、おじいちゃん、ありがとう!」
「おめでとうございます、ひかりちゃん! さあ、盛大にお祝いしましょうッ!」
家族全員の「いただきます」の声と共に、賑やかなディナーが始まった。
ハルの手料理と誠が用意した寿司を口に運ぶたび、ひかりは「美味しい!」と歓声を上げ、ひまりは「神の味がします……!」と感涙に咽ぶ。早苗と誠も、美味い美味いと箸を止めることなく笑い合っていた。
◇ ◇ ◇
美味しい食事と、他愛のない、けれど温かい会話。
みんなで舌鼓を打ち、お腹も心も少し落ち着いてきた頃合いで。
「では……」
早苗が上品に口元を拭い、綺麗にラッピングされた小箱を優しく差し出した。
「おじいちゃんとおばあちゃんからはこれよ。高校生になったし、そろそろちゃんとした物を持っておくのもいいと思って」
「お財布……? 開けてもいい?」
「ええ、もちろんよ」
ひかりが丁寧に包みを開けると、中から現れたのは、可愛らしいデザインでありながら、上質な革でしっかりと作られた長財布だった。
「わぁ……! すごく可愛い!」
「ふふ、ひかりちゃんに似合うと思って。大切に使ってちょうだいね」
早苗が目を細めて温かく微笑むと、続いてひまりが居住まいを正し、少し大きめの紙袋を大事そうに差し出した。
「私からはこちらです、ひかりちゃんッ! 休日に着てお出かけできるよう、ひかりちゃんに一番似合うものを選び抜きました!」
「ありがとう、ひまりちゃん!」
紙袋の中から現れたのは、淡い色合いの清楚な洋服だった。ひかりの無邪気な可愛らしさを引き立てつつも、高校生らしい少し大人びた、シンプルなデザインの一着だ。
「わぁ……! すごく可愛い! ねえひまりちゃん、今度のお休み、これ着て一緒にお出かけしようね!」
「あああっ……! もちろんですともッ! ひかりちゃんとのお出かけ、このひまり、全身全霊をもってエスコートさせていただきますッ!」
いつもの激しい愛情表現にひかりがコロコロと笑う中、最後にハルが、小さな長方形の箱を静かに手渡した。
「私からは、これだ」
「お母さんから……? 開けてもいい?」
ハルが頷くのを見て、ひかりは丁寧に包装紙を解いた。
中に入っていたのは、細身の革ベルトがあしらわれた、シンプルで上品な腕時計だった。
「わぁ……大人っぽくて、すごく綺麗……」
「高校生になったのだ。時を刻む確かなものを、一つくらいは持っておきなさい。……時間は大切にね」
「うんっ! お財布も、お洋服も、時計も……全部すっごく嬉しい! ありがとう!」
ひかりが無邪気に笑うと、見守っていた家族全員の顔に、温かな笑みが広がった。
◇ ◇ ◇
「さて……そろそろ、ケーキはどうかな?」
ハルのその提案に、食卓の空気が再びぱっと華やいだ。
「ええ、もちろんよ。甘いものは別腹だものね」
「おぉ、待ってました!」
早苗が上品に微笑み、誠が嬉しそうに頷く。ひかりとひまりに至っては、待ちきれないとばかりに目を輝かせて姿勢を正していた。
皆の喜ぶ顔を確認し、ハルが静かに立ち上がり、キッチンから戻ってくる。
その手にあるのは、真っ白な生クリームと色鮮やかなフルーツで彩られた、見事なデコレーションケーキだった。
「わぁっ……! すごい、すっごく綺麗!」
「あああっ……! なんという白く輝く神々しさ! この純白のクリームはひかりちゃんの純粋な心を表し、散りばめられたフルーツは未来の輝きを表しているのですね……ッ! まさに女神によって生み出された奇跡のケーキですッ!」
「……シンプルなデザインのバースデーケーキだよ、ひまり」
目を輝かせるひかりの隣で、ひまりが両手を組んで限界突破した大絶賛を捧げている。
「おじいちゃんが、ケーキも用意してくれると言ってくれたのだけれど。……ひかりの誕生日ケーキだけは、どうしても自分で作りたくてね」
ハルが少しだけ申し訳なさそうに、けれど確かな愛情を込めて言うと、誠は「いいんだいいんだ、ハルさんのケーキの方がひかりも喜ぶさ」と豪快に笑った。
部屋の照明が少しだけ落とされ、ケーキの中央に立てられたろうそくに、一つずつ温かな火が灯されていく。
揺らめく炎が五人の顔を照らし出す中、ひかりは両手を組んで目を閉じ、ふうっと勢いよく息を吹きかけた。
パチパチパチ、と部屋中に拍手が響き渡る。
「「「お誕生日、おめでとう!」」」
再び明かりが点けられ、切り分けられたケーキがそれぞれの前に配られる。
大きく口を開け、フォークでケーキを頬張ったひかりの顔が、とろけるように綻んでいく。
「んんっ……! すっごく美味しい! お母さんのケーキ、世界で一番大好き!」
「……そうか。口に合ってよかった」
満面の笑みでケーキを食べる愛娘の姿を見つめながら、ハルは目を細めた。
「はい、お母さんも! あーんっ」
不意に、ひかりが自分のフォークで切り分けたケーキを、ハルの口元へと差し出してきた。
少しだけ驚きつつも、ハルはその甘い一口を静かに受け入れる。
洗練された甘さと、口の中で溶ける滑らかなクリーム。
今でこそ、それなりの物を作れるようになったが、最初からこうだったわけではない。
口に広がる手作りの味と、目の前で嬉しそうに笑うひかりの姿が重なり――。
ハルの脳裏に、ふと十数年前の記憶が蘇っていた。
◇ ◇ ◇
――ひかりがまだ、保育園に通っていた幼い頃。
『もうすぐ、ひかりの誕生日だね。何か欲しいものはあるかい?』
何気なくそう尋ねたハルに対し、幼いひかりは目を輝かせて即答した。
『ケーキ!』
『……ケーキ、かい?』
『うんっ! お母さんの作ったケーキが、食べてみたい!』
その無邪気な願いに、ハルは内心でひどく戸惑うことになった。
長く生きる中で、料理そのものは人並み以上にこなしてきた。だが「お菓子作り」という分野だけは、それまで全く縁のない未知の領域だったのだ。
作ったことなど、ただの一度もない。
しかし、期待に満ちたあの小さな瞳を裏切ることなど、ハルにできるはずがなかった。
その日の午後、ハルは早苗の元を訪ね、静かに頭を下げた。
『早苗さん。突然で申し訳ないが……私に、お菓子作りを教えてくれないか』
突然の頼みに早苗は目を丸くしたが、事情を聞くと優しく微笑んで快諾してくれた。
しかし、いざキッチンに並んで立ち、ボウルを抱えてみると、料理とはあまりにも勝手が違いすぎた。
『ハルさん、ストップ。それ以上混ぜたらスポンジが膨らまなくなっちゃうわ』
『……加減が難しいね。これでいいだろうか?』
『生クリームは温度が高いとボソボソになるから、しっかり氷水で冷やしながら立てないとダメよ』
『なるほど、冷やしながら……』
誕生日までは、もう数日しか残されていなかった。
十分な練習を重ねる時間などない。それでもハルは、慣れないボウルと泡立て器を手に、キッチンでひたすらに格闘し続けた。
繊細な計量、温度管理、手際の良さ。普段の料理とは全く違うベクトルで要求される技術に、ハルはひどく難儀した。
そうして不器用な努力の末に、ようやく迎えた誕生日の当日。
ハルがひかりの前に出した『初めてのケーキ』は、お世辞にも美しいとは言えない代物だった。
スポンジの高さは均一ではなく、少しだけ傾いている。
生クリームの塗り方はデコボコで、不器用さが全面に押し出されていた。飾られたイチゴもどこかバランスが悪い。
そして、味の出来栄えも『普通』だった。
特別美味しいわけでもなく、ただ甘いだけの、素人が作った普通のケーキ。
完璧なものを与えたかったのに、どうしても上手く作れなかった。
申し訳なさと、不甲斐なさ。そんな微かな後悔を抱きながらテーブルにケーキを置いたハルに対し――。
『わぁっ……! お母さんが作ってくれたの!?』
幼かったひかりは、満面の笑みで歓声を上げた。
形が崩れていようが、味が普通だろうが、あの子には関係なかったのだ。ただ『お母さんが自分のために作ってくれた』というその事実だけで、ひかりは全身で喜びを表現してくれた。
大きな口を開けてケーキを頬張り、口の周りを真っ白なクリームだらけにして。
『美味しい! すっごく美味しい!』
そう言って笑った、あの無垢な笑顔。
ただの不格好なケーキを、まるで世界で一番の御馳走のように食べてくれたひかりの姿を見た瞬間、ハルの胸の奥で、名付けようのない感情が熱く、ひどく熱く込み上げてきたのを、今でもはっきりと覚えている。
『お母さん、ありがとう! 大好きっ!』
◇ ◆ ◇
――記憶から意識を戻し、私は目の前の光景を見つめる。
不格好なケーキを頬張っていた小さなその姿は、いつの間にかこんなにも立派に成長した。
だが、ケーキを美味しいと頬張るその屈託のない笑顔だけは、あの頃から何一つ変わっていない。
そんな娘の様子をじっと見つめていると、私の視線に気がついたひかりが顔を上げる。
「どうしたの、お母さん? 私の顔、何か付いてる?」
そう言いながら、不思議そうに小首を傾げるひかり。
その口の端には、幼い頃と全く同じように、小さな生クリームがちょこんと付いていた。
「……いいや。なんでもないよ」
私はそっと立ち上がると、ひかりの口元についたクリームをナプキンで優しく拭う。
「えへへ、ありがとう! お母さん、大好きっ!」
――あの日と同じ、いつもひかりが口にする、ともすれば口癖のようなその言葉。……だが、その言葉にはいつだって、ひかりのありったけの想いが込められている事を、私は知っている。
だからこそ、その『いつも』の言葉は……いつだって私の心を満たしてくれるのだ。
「……ああ、私も愛しているよ。ひかり」
愛しい娘の真っ直ぐな言葉に答えるように、私もありったけの想いを込めながら、自然とそう返していた。
それと同時に、自分のフォークで切り分けたケーキを、ひかりの口元へとそっと差し出す。
ひかりは目をぱちくりとさせて固まっていたが――やがて、差し出されたケーキをパクリと頬張った。
「うんっ! ……美味しい!」
今日一番の、とびっきりの笑顔の花が咲く。
……だが、その口の端には折角拭ったクリームが再び付いていた。それを見た食卓を囲む家族からは、笑い声が弾ける。
そうして……その後も常盤家のリビングからは、温かな声が響き続けるのだった。
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