幕間:否定
祝50回!
ってことで、ザマァ回なのかもしれない……!!
追記:時間軸の乱れに気が付いたので、微妙に修正済
初夏の日差しが差し込む、静かなリビング。
早苗の誕生日を終え、もうすぐひかりの誕生日を迎えるという、常盤家にとっての明るいニュースばかりが続くはずのタイミング。
……だが、ダイニングテーブルに向かい合って座る誠の顔には、いつもの陽気さはなく、ひどく重く、暗い影が落ちていた。
「……ハルさん。実は今朝、通知が来たんだ」
絞り出すような誠の言葉。
『被害者等通知制度』――犯罪被害者やその家族に対して、加害者の刑務所からの出所予定日などを知らせる制度。
それにより、誠は『あの男』の刑期が満了し、社会へ放たれる日が近いことを知らされていた。
「大丈夫だろうか……。あいつがまた、我々の知らない所でひまりに近づこうとしたり……逆恨みに来ないだろうか」
父親としての、切実な不安と恐怖。
愛する娘の人生を蹂躙した元凶が、再び家族を脅かすのではないか。その懸念に、誠は震える両手を強く握りしめていた。
そんな彼を、ハルは静かな、どこまでも穏やかな瞳で見つめ返す。
「心配は要らないよ。……あの男はもう、誰かに自分から関わることは出来ないからね」
その言葉には、一切の揺らぎがない。
ハルが紡いだ静かな、だが絶対の確信に、誠は少しだけ目を見開いた。
◇ ◆ ◇
某月某日。
とある刑務所から一人の男が出所した。
痩せこけた頬。窪んだ目。
生気を宿さぬその眼差しを周囲に這わせながら、男は空から降り注ぐ日差しを避けることも――否、『否定』もせず、ただ歩いていた。
かつて、この男は教育者であった。
町の人々から尊敬を集め、教え子やその親たちから全幅の信頼を寄せられる、絵に描いたような立派な『学年主任』。
だが、その分厚い仮面はとうの昔に剥がれ落ちている。
教え子を密室に呼び出し、卑劣な脅迫を用いて複数回にわたり強姦し、あろうことか妊娠させた罪。
その悍ましい悪逆非道が白日の下に晒された時、彼が長年この町で築き上げてきた地位も、名誉も、虚飾の信頼も、すべてが音を立てて崩れ去った。
己の保身のために見苦しく足掻き、法廷で裁かれてから十数年。
そして今、刑期を終えた男は、文字通りすべてを失った抜け殻として、再び塀の外へと吐き出されたのだ。
すれ違う人々は、誰も彼に見向きもしない。
男自身もまた、人の目を避けるように、逃げ惑うように、ただ重い足を引きずり、アスファルトの上を這うように歩き続けた……。
◇ ◇ ◇
男の足取りが重いのは、長年の刑務所暮らしによる老いだけが理由ではない。
男の意識は、十数年前に開かれた第一回公判のあの日から、深い泥の底に沈んだままだったのだ。
逮捕され、起訴された当初、男は己の罪を素直に認めるつもりなど毛頭なかった。
法廷という公の場において、彼は起訴内容の事実を一部否定し、『合意があった』『生徒の方から誘惑された』と主張する算段を立てていたのである。
妊娠という動かぬ事実がある以上、行為そのものは否定できない。だからこそ「無理やりではなかった」と主張し、被害者であるひまりを法廷に引きずり出そうと考えた。
自分が培ってきた話術と弁護士の力を使い、精神的に追い詰められているであろう小娘を証言台で崩し、己の刑を少しでも軽くする。
それは、どこまでも身勝手で、被害者の心に二重の傷を負わせる残酷な目論見だった。
そして迎えた、第一回公判。
冷たい静寂に包まれた法廷で、裁判は淡々と、滞りなく進んでいく。
『被告人は、起訴状にある通りの事実を認めますか』
裁判長の問いかけに対し、男は堂々と反論の口を開いた。
嘘で塗り固められた否認を、公の場で放つために。
「いいえ、違いま――」
だが……その言葉が最後まで紡がれることはなかった。
――おかしい。声が、出ない。
喉が急に凍りついたように固まり、空気が肺から押し出されない。男は突如として見舞われた異常事態に、激しいパニックに陥った。
無様に口をパクパクとさせながら、すがるように周囲を見渡した、その時。
傍聴席に座る、ひとりの女と目が合った。
――あの女だ。
理由は分からない。ただ、本能が警鐘を鳴らし、そう告げている。
どこか希薄で、静謐な雰囲気を漂わせた女。
だが、目深に被った帽子の奥から言い知れぬ威圧感を漂わせている。その感情の抜け落ちたような深い瞳は、真っ直ぐと男を見据えていた。
「……救えないね」
ひとり呟くハル。
ハルは最後の最後まで、男の行動を見極めていた。もし、男が素直に罪を認め、刑に服すのであれば、そのまま見守ろうと。
だが、男の口をついて出たのは、救いのかけらも感じられないものだった。
これ以上、あの男に都合の良い嘘を吐かせれば、ひまりは完全に壊れてしまう。
次の瞬間。
「――――はい。すべて、その通りです」
男の口から零れ落ちたのは、自らの目論見とは真逆の、完全なる肯定の言葉だった。
男は内心で激しく混乱した。
違う。そんなことを言うつもりはなかった。自分は否定しなければならないのに。
『……では、被告人は被害者を脅迫し、無理やり関係を持ったことを認めるのですね』
「はい。間違いありません」
叫ぼうとしても、首を横に振ろうとしても、身体が全く言うことを聞かない。
いや、それどころか、男の脳内から『違う』『そうではない』という反発の意思そのものが、不気味なほどにするりと抜け落ちていくような感覚があった。
……ハルが引き受けたのは、単なる言葉の抑圧ではない。
男の存在そのものから、『否定』という概念を根こそぎ奪い取ったのだ。
――それ以降、男はあらゆる事を否定できなくなった。
検察が突きつける容赦のない事実も、被害者への非道な行いも、すべてに対してただ力なく頷き、肯定することしかできなくなった。
弁護人がどれほど助け舟を出そうとも、男は「はい」と答えるしかなく、拒否することも、反論することもできない。
自らの意志と口を完全に切り離され、ただ与えられた言葉に頷くだけの操り人形。
ハルの最後の慈悲すら己の保身で蹴り飛ばした男に用意されたのは、法廷という場で、己の悪逆のすべてを自らの口で肯定させられるという末路。
傍聴席に座るハルは、その光景を見届けた後、静かに呟く。
「君から引き受けた『否定』は、やがて私の中から薄れ消えゆくだろう……だがその時まで、私は君を『否定』し続けよう」
そうして男は、あらゆる否定の権利を失い、己の罪をすべて認めた形で、長い長い刑に服することになったのである。
◇ ◇ ◇
男が真の地獄を見たのは、裁判が終わり、鉄格子の中に収監されてからのことだった。
ハルに『否定』の概念を奪われたということは、ただ自分の罪を認めるというだけでは終わらない。
それは即ち、他者から向けられるあらゆる悪意、命令、理不尽に対して、一切の『拒絶』ができないということを意味していた。
「おい、お前の飯をよこせ」
「はい」
「これを全部舐めろ」
「はい」
獄中で向けられる暴力や屈辱に対して、男はただ首を縦に振り、従うことしかできない。
嫌だ、やめてくれと叫びたくても、脳内から『拒否』という選択肢がすっぽりと抜け落ちているため、ただ言われた通りに行動してしまうのだ。
だが、肉体的な苦痛や屈辱など、男を襲った恐怖のほんの序の口に過ぎなかった。
男を真の狂気へと追いやったのは、もっと根源的な恐怖である。
――もし、誰かに『死ね』と命じられたら、どうなるのか。
その事実に思い至った瞬間、男の心臓は凍りつき、底知れぬ恐怖が全身の血を駆け巡った。
誰かから「死んでくれ」と言われた瞬間、自分はそれを『否定』できない。
「はい」と頷き、自らの手で自らの首を絞めるのか。あるいは壁に頭を打ち付けて、事切れるまで止まらなくなるのか。
他者の何気ない一言が、絶対の命令として自分の命を刈り取る。
自分の命の決定権すら、赤の他人の気まぐれな舌先に握られているという極限の恐怖。
それからの毎日は、息をするのも恐ろしいほどの絶望の連続だった。
すれ違う受刑者の囁き声が恐ろしい。
看守の怒声が恐ろしい。
廊下に響く足音すらも、自分に死を宣告しに来る死神のものに聞こえる。
いつ、誰が、自分に死を命じるかわからない。
他者の声が耳に入るたびにビクビクと怯え、震え、ただ発狂しそうな恐怖を必死に耐え忍ぶしかない日々。
眠ることもできず、他者の影に怯え続け、男の精神は徐々に削り取られ、ボロボロに崩れ去っていった。
だからこそ、刑期を終えて出所した今でも、男は生気を失った亡霊のように周囲に怯え続けているのだ。
自分の尊厳を完全に奪われ、他者の言葉ひとつでいつ終わるかもわからない極限の恐怖。
それはかつて、密室の中で男がひまりに味わわせた、逃げ場のない絶望そのものであった。
因果応報。
少女の人生を無残に踏みにじった男に与えられたのは、死ぬことすら許されず、ただ死の恐怖に怯えながら生き地獄を這いずるという、絶対的な報いであった。
◇ ◆ ◇
初夏の日差しが差し込む、静かなリビング。
ハルのその絶対的な確信を帯びた声を聞いて、誠の肩からすっと余計な力が抜けていった。
十数年前、あの男に具体的に何が起こったのか。誠は深い事情までは知らない。
だが、目の前にいる彼女が「心配ない」と断言するのなら、それはこの世界における絶対の真理なのだろう。
「……そうか。ハルさんがそう言ってくれるなら、俺はもう何も心配しないよ」
誠は深く息を吐き出し、ようやくいつもの人の良さそうな、温かな笑みを浮かべた。
「ああ。あの男はとうの昔に終わっている。……君たちは何も案ずる必要はない」
静かに告げ、ハルはテーブルの上のティーカップに手を伸ばした。
窓の外からは、穏やかな初夏の風が吹き込み、薄手のカーテンを静かに揺らしている。
遠い空の下で、あの男は今も、そしてこれからも、自らの犯した罪と恐怖に苛まれながら無間地獄を這いずり回り続けるだろう。
だが、そんな汚泥のような因果が、この温かな場所に届くことは二度とない。
『ただいまーっ!』
『ふふっ、ひかりちゃん、靴はちゃんと揃えてね』
ふいに、玄関の方から、弾むような少女の声と、それに寄り添う愛しげな女性の声が響いた。
出かけていた、ひかりとひまりが帰ってきたのだ。
賑やかな足音がリビングへと近づいてくる。
世界で一番愛おしくて、尊い足音。
ガチャリと扉が開き、リビングに顔を出したひまりが、テーブルにつくハルの姿を認めるなり、パァッと花が咲いたようにその美貌を輝かせた。
「ああ……っ、ハルさん! ただいま戻りました……ッ! 窓際で紅茶を飲まれているだけなのに、まるで宗教画のような神々しさ……! 今日もハルさんは、世界で一番美しくて尊い私の神様です……ッ!」
胸の前で両手を強く組み、限界突破した熱量で崇拝の言葉を紡ぐひまり。
そんないつもの彼女の姿に、ハルは困ったように小さく笑い、優しく首を横に振った。
(大げさだよ、ひまり。私は神様なんかじゃないさ)
ひまりは事あるごとに、ハルを『神様』と呼び、狂信的とも言える熱烈な称賛の眼差しを向けてくる。
だが、ハルはそれをいつも優しく、静かに否定する。
神とは本来、あまねく全ての命に対して公平で、公正であるべき存在だ。
しかし、自分は違う。
自分は属した側にのみ寄与する存在だ。
決して、清廉潔白などでもない。
その身勝手さを、誰よりもハル自身が一番理解していた。
だからこそ、神様になどなれない。なるつもりもない。
「……お帰り。二人とも」
公平でも、公正でもない。だが、それでいい。
ただ愛する者たちを守り抜く一人の『母親』として。
ドアが開くその先へ、ハルはどこまでも優しく、静かな微笑みを向けた。
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