親の願い
定期テストの本番。
学生たちにとっての一大決戦であるその日は、よく晴れた心地の良い朝だった。
朝食の準備を進める私の向かいでは、パジャマ姿のひまりがカウンター越しに、淹れたてのコーヒーを啜っていた。
こうして朝の支度をする私をのんびりと眺めるのが、彼女にとってのささやかな『癒しタイム』らしい。
「お母さん、ひまりちゃん、おはよぉ」
やがて、パジャマ姿のひかりが、少しだけ眠たそうな顔でリビングへと降りてきた。
朝がそこまで得意ではない彼女は、特有の緩い空気を纏ったまま私の背中に回り込み、ポスっと寄りかかるように抱きついてきた。
ひかり曰く、高校生になっても『朝のお母さん成分充電だけはやめられない』のだそうだ。
私は料理の手を止め、お腹に回された細い腕を優しくポンポンと叩いてやった。
「おはよう。よく眠れたかい?」
「うん……。休日にみんなで勉強したから、昨日は早く寝たし大丈夫」
「それは重畳。……さて、食事にしようか」
「はーい」
私の背中に顔を擦り付けて少しだけ甘えた後、ひかりは満足そうに離れ、自席についた。
ふとカウンターの向こうへ視線をやると、ひまりが両手で口元を覆い、彼女が言う『尊い光景』を前にして朝から昇天しかけていた。
「……ひまり。いつまで彼岸を彷徨っているんだい。トーストが冷めるよ」
「はっ……! おはよう、ひかりちゃん! いただきます! さあ、いざ出陣の朝ですよ!」
「もぉひまりちゃんったら。いつも通り学校行くだけだよ。……いただきまーす」
無駄にテンションが高いひまりとは対照的に、ひかりは穏やかにベーコンを頬張っている。その落ち着きは、勉強会も含めて、しっかりと準備を重ねてきた自信の表れだろう。
「……あ、そうだお母さん。あのね。今日のテストの後、みゆきちゃんたちがうちに来て一緒に明日の勉強したいって言うんだけど……お昼ご飯、みんなの分もお願いしてもいいかな?」
「ああ、構わないよ。……後で少し買い出しに行って、皆の分を用意しておこう」
「やった! ありがとう、お母さん」
嬉しそうに微笑むひかりに、私は温かい紅茶の入ったカップを差し出す。
「まずは今日、しっかりと頑張っておいで」
「はーい」
和やかな朝食でお腹を満たし、すっかり目の覚めたひかりは、ひまりと共に身支度を整える。
やがて、制服に着替えたひかりと、通勤用のスーツに着替えたひまりが、揃って玄関へと向かった。
靴を履きながら、ひまりが真剣な顔でひかりに向き直った。
「保健室から、私が持てる霊力のすべてを注ぎ込んで祈祷しておきます! 万が一わからない問題が出た時は、私の念を受信してくださいね!」
「あはは、わかった。ひまりちゃん、ありがとう」
「……やれやれ。この前褒めたばかりだというのに。君はしっかりと務めを果たして来なさい」
呆れ混じりに息を吐き、私は用意しておいた弁当の包みをひまりへと手渡す。
テスト期間で午前授業のひかりの分はないが、養護教諭として通常業務がある彼女の分は、いつも通り作ってある。
「ハルさんのお弁当……っ! ありがとうございます、これで今日も一日戦い抜けます!」
ひまりは受け取った包みを胸に抱きしめ、ぱぁっと顔を輝かせた。
毎日の事だというのに、まるで初めて手作り弁当を貰ったかのように感激している。
だが、その大げさなやり取りのおかげか、ひかりの顔からは最後の緊張もすっかり抜け落ちていた。
「じゃあ、行ってきます!」
「あぁ、気を付けて行っておいで」
二人の背中を見送り、私は小さく息を吐いて再びキッチンへと戻った。
◇ ◇ ◇
その後、家事をあらかた片付け、少女たちの昼食の買い出しに出た先のスーパーで、私は思いがけない人物と遭遇した。
「あら、ハルさんじゃない!」
声をかけてきたのは、ひかりの友人であるみゆきの母親……由紀子さんだった。
ちょうど買い物を終えたタイミングだったこともあり、私たちは併設されている小さなカフェスペースで、少しだけお茶をすることになった。
「休日の勉強会でお邪魔したばかりなのに、今日もテストの後に伺って、その上お昼までご馳走になるみたいで……本当にごめんなさいね」
向かいの席に座るなり、由紀子さんは申し訳なさそうに頭を下げた。
「謝るようなことではないよ。ひかりも、友人たちが来てくれてとても楽しそうだからね」
「そう言っていただけると助かるわ。……でも、ひかりちゃんは昔から成績も良いし、うちのみゆきがお邪魔ばかりして、足を引っ張っていたんじゃないかって心配でねぇ」
彼女は温かいコーヒーのカップを両手で包み込みながら、少しだけ困ったように眉尻を下げる。
親というものは、いつだって自分の子供の出来を他所と比べて、勝手に心配してしまう生き物らしい。
私は静かに紅茶を一口啜り、ゆっくりと首を振った。
「……成績など、どうでもいいことだよ」
「え……?」
「結果が重要なのではない。……自らで課題を見つめ、努力しようとする事が肝要なのさ」
私が淡々とそう告げると、由紀子さんは目を丸くして瞬きをした。
「その点、休日に自分たちで勉強会を開いて参加しているということは、みゆきさんは自らの課題に積極的に取り組んでいるということだろう?」
「それは……まあ、そうなんだけど……」
「その姿勢こそが、重要なのだよ。わからないことから逃げず、友人と教え合いながら乗り越えようとする。……ひかりも見習うべき点が多くある」
先日のリビングでの光景を思い出す。
何度も頭を抱え、静音の助けを得ながらも最後までやり抜いたみゆきの姿は、確かに立派なものだった。
私はティーカップをソーサーに置き、真っ直ぐに彼女の目を見据えた。
「もっと、娘さんを褒めてあげるといい。彼女はしっかりと、自分の足で前へ進もうとしているのだから」
「……っ」
私の言葉を聞いた彼女は、ハッとしたように小さく息を呑み――やがて、ふっと肩の力を抜いて柔らかく微笑んだ。
「……そうね。私、つい数字ばかり気にして……あの子が頑張っているところを、ちゃんと見てあげられてなかったかもしれないわ」
「親とはそういうものだろう。近すぎるが故に、見えなくなることもある」
私は少しだけ目元を緩め、言葉を続けた。
「極論、健やかに、人としての道を踏み外すことさえなければ、それで良いと、私は思うよ。……違うかい?」
私の問いかけに、彼女は少しだけ目を見張り――やがて、憑き物が落ちたような、心底晴れやかな笑顔を見せた。
「ふふっ……本当にそうね。なんだか、ハルさんとお話ししていると、ハッとさせられるわ。……ありがとう」
彼女はコーヒーの入ったカップをゆっくりと置き、静かに息を吐いた。
窓の外では、春の柔らかな日差しが街を照らしている。
今日のテストを終えて帰ってくる子供たちの顔を思い浮かべながら、私はもう一口、温かい紅茶を喉の奥へと流し込んだ。
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