春のお届け物
平日の午前。いつものように家事をこなし、ふと玄関の掃除をしようと向かった時のことだ。
「おや?」
綺麗に整えられた靴棚の上。そこに、見慣れた包みがぽつんと残されているのに気がついた。
ひかりの弁当箱だ。朝の慌ただしさの中で、うっかり忘れていってしまったらしい。
「やれやれ。……あの子の抜けた所はひまり譲りかな?」
私は小さく息を吐き、出掛ける支度を整えた。
◇ ◇ ◇
春の柔らかな風が、開け放たれた窓から廊下へと吹き込んでくる。
私はひかりの弁当箱を提げて、校舎の中を歩いていた。
すれ違う生徒や教師たちが、ちらちらとこちらへ視線を向けてくる。
随分と視線が多い。受付で渡され、首から提げている『来客用』のプラスチックパスが悪目立ちしているのか、あるいは、私がPTA会長を引き受けたという話がもう学校中に広まっているのだろうか。
横を通った教師たちが、なぜかさっと壁際に道を譲り、深々と一礼していくのが少々不思議ではあったが、私はそのまま早足で教室へと向かい、休み時間になったばかりの教室の戸を開ける。
「失礼するよ」
そう声をかけてひかりを呼び出し、弁当を渡す。
彼女のクラスメイト達は、私の姿を見るなり、一斉に背筋を伸ばして直立不動で出迎えてくれたのが印象的だった。保護者に対する礼儀がこれほど行き届いているとは、素晴らしいことだ。
「お母さん、ありがとう!」
花が咲いたように笑うひかりの顔を見て、思わず私も笑みが溢れる。この笑顔の前では、これしきの手間などどうということはなかった。
用事も済み、そのまま帰路につくつもりで踵を返したが、ふと、もう一人の大切な家族の顔が脳裏を過った。
せっかくここまで来たのだ。少しだけ、様子を見ていくのも悪くない。
私は歩く方向を変え、静かな廊下を進んで保健室の引き戸の前に立った。
ノックをしようと手を伸ばしたところで、中から微かに柔らかな声が聞こえてくる。
「――はい、これで大丈夫。傷口にはバイ菌が入らないように洗ってあるから、無理に剥がしちゃ駄目だよ」
「ありがとうございます、ひまり先生」
「ふふっ、どういたしまして。もうすぐお昼休みだから、教室に戻ってお弁当食べてね。午後の体育も、少し気をつけるんだよ」
少しだけ開いていた戸の隙間から中を覗く。
清潔な消毒液の匂いが漂う室内。ひまりは丸椅子に座った女子生徒の膝小僧に、絆創膏を貼り終えた所だった。
――相対している女生徒に見覚えがある。ひかりの友人である、静音だ。
家で見せるいつもの賑やかな様子はない。
そこには、一人の生徒を優しく包み込み、安心を与える『保健室のひまり先生』の姿が確かにあった。
やがて、静音が「失礼しました」と頭を下げて保健室から出てくる。
すれ違いざまに廊下に立つ私を見て、彼女はビクッと肩を揺らし、小さく息を呑んだ。
私が人差し指を口元に当てて静かに微笑みかけると、静音はポンッと音を立てるように顔を真っ赤に染め、何度もペコペコと会釈をしながら小走りで去っていった。
一人になったひまりが、小さく息を吐いて背伸びをした、その瞬間。
「……邪魔してもいいかい?」
私が引き戸を開けて声をかけると、ひまりの体がビクッと大きく跳ねた。
「は、ははははハルさん!? な、なぜここに!?」
先程までの凛とした先生の顔はどこへやら。
彼女は目を見開き、あわあわと両手を宙で泳がせている。
「ひかりが弁当を忘れてね。届けに来たついでだよ。……迷惑だったかな?」
「め、迷惑だなんてっ、そんな万死に値するようなこと! あ、ああっ、こんな殺風景な保健室にハルさんが降臨なされると知っていれば、せめてレッドカーペットでもご用意しましたのに……っ! と、とりあえず今すぐ極上のお茶を淹れますので!」
顔を真っ赤にしてティーセットを準備し始めるひまりの背中を眺めながら、私はやれやれと首を振り、来客用のソファへと腰を下ろす。
程なくして、温かい湯気を立てるマグカップが私の前に置かれた。
ひまりは向かいの席に座るなり、もじもじと膝の上で指を絡ませている。
「……あの、ハルさん。その、いつからそこに……?」
「膝の絆創膏を貼り終えたあたりからかな。……少しだけ、様子を見させてもらったよ」
「えっ……! み、見られてたんですか……っ」
ひまりは「ううっ」と小さな悲鳴を上げ、両手で顔を覆ってしまった。
仕事中の真面目な姿を見られただけで、どうしてそこまで羞恥を感じるのか、相変わらず理解の範疇を超えている。
私は温かいお茶を一口啜り、小さく息を吐いた。
「隠すようなことではないだろう。立派なものだったよ」
「……え?」
「的確に処置をする良い先生だ。なにより、生徒に好かれているのがさっきのやり取りでも見て取れた。……君が外の世界でもしっかりと足をつけて歩いていることが知れて、安心したよ」
私が素直な称賛を口にすると、ひまりは覆っていた指の隙間からこちらを見つめ――やがて、その瞳をじわりと潤ませた。
「……っ、ハルさんにそう言ってもらえるなんて……私、生きててよかったです……っ」
「大袈裟だね。事実を口にしたまでさ。どうにも君は涙脆くていけないね……」
私は静かに微笑み、再びマグカップに口をつける。
窓の外からは、昼休みを告げるチャイムと、グラウンドへ駆け出していく生徒たちの賑やかな声が聞こえてきた。
穏やかな春の日の、ささやかな寄り道。
ただ忘れ物を届けに来ただけの外出だったが、中々どうして、思いのほか満ち足りた寄り道になった。
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