不意討ち
穏やかな春の陽光がリビングに満ちる、土曜日の午後。
昼食を食べ終えたひかりは、「まったり過ごしたいから」と言って集中して勉強を片付けると、早々にお風呂へと向かった。
程なくしてさっぱりとした顔で戻ってきた彼女が、私の膝にその頭を預けてくる。
ドライヤーで乾かしたばかりの、まだ少し熱を帯びた茶色の髪。私は手近な櫛を手に取り、ゆっくりと通し始めた。
指先を通して伝わるその柔らかさと、シャンプーの甘い香りが漂ってくる。
「……気持ちいい。お母さんに梳いて貰うと、なんかいつもよりサラサラになる気がする」
猫のように目を細めるひかり。私は静かに微笑みながら、ゆっくりと首を横に振る。
「……そんな効果はないよ」
「そうかなぁ……。きっとあるよぉ……」
ふにゃふにゃと甘えるひかりの様子を、暫く優しく見つめていたが、視線を感じて顔を上げる。
向かいのソファでティーカップを握りしめたまま、ひまりが固まっていた。
ひかりが私の膝に頭を預けているこの光景を、彼女は息をするのも忘れたかのような陶酔した表情で見つめている。
その顔には、いつものように「尊い」という文字が刻まれていた。
私はやれやれと首を振り、再びひかりの髪を梳き始めると、そのひかりから声が上がる。
「そういえば昨日、授業参観が終わってからも、みんなずっとお母さんのことで持ちきりだったよ」
その言葉に、昨日の自らの行動を思い返すと同時に、一つ大きな反省をする。
「ひかりのリクエスト通り『本気』で臨んだつもりだったが、最後に少し気が抜けてしまったね。私としたことが失態だったよ」
「でも、ギャップが凄い! って皆褒めてたから、きっと大丈夫だよ。……でも、結衣ちゃんは『もう本気は駄目』って言ってた。なんでだろ?」
「さて……何故だろうね。ともあれ、ひかりが誇らしく感じたのであれば、真剣に赴いた価値はあったね」
そんな話をしていると、いつの間にか現実に帰還していたひまりが徐に口を開く。
「そういえばハルさん、PTAの会長になったとか?」
「え、そうなの? お母さんそんな事ひと言も言ってなかったよね?」
「……ああ。そういえば伝えていなかったね」
「すごーい、じゃあお母さんが一番偉いんだ!」
ひかりが嬉しそうに声を弾ませるが、私は小さく息を吐いて答える。
「……誰も引き受けたがらなかったから、請け負っただけさ。誰かがやらねばならないだろう」
私がそう肩をすくめると、ひかりは誇らしげに私の顔を見上げた。
「流石お母さん、偉い! あ、でも、お母さんがPTA会長なら、凄い有名になっちゃうね。お母さんモテモテになっちゃうんじゃない? 告白とかされちゃうかも!」
ガシャ、と。
向かいの席でティーカップをソーサーに戻そうとしていたひまりの動きが、文字通り、石像のようにピタリと停止した。
「……モテモテ?」
私が髪を梳く手を止めて尋ねると、ひかりはクッションを抱き抱えながら無邪気に頷く。
「うん! だってお母さん、すっごく美人だし、皆お母さんの事見たら、好きになっちゃうでしょ! ……あ、そうだ。お母さんは好きな人とかいないの? お母さんからそういう話全然聞いたことないから」
ピキ、ピキピキピキッ。
ひまりの背中から、何かがひび割れるような幻聴が聞こえた気がした。
彼女の目は完全に虚空を見つめ、ティーカップの取っ手を握る指先がカタカタと震えている。
(――す、すすす、好きな人!? ハルさんのお隣に立つ、見ず知らずの男……!?)
声にこそ出していないが、ひまりの顔には彼女の脳内を駆け巡る絶叫が、字幕のようにありありと浮かび上がっていた。
たった数秒の間に、顔色を青から赤、そして白へと目まぐるしく変色させるひまり。
このままでは、彼女の思考回路が完全に焼き切れてショートしてしまうだろう。
私は小さく息を吐き、悪気なく爆弾を投げ込んだひかりの頭を、ポンと軽く撫でた。
「……私に好きな人は居ないし、今後も予定はないよ」
「え、なんで?」
「私にはもう、これ以上望むものがないからね」
私は、まだフリーズしたままのひまりと、不思議そうに首を傾げるひかりを交互に見つめ、静かに微笑んだ。
「私には愛おしい君たちがいる。……私にとっての世界は、この小さな家の中で、とっくに完成しているんだよ」
結婚などという世俗の契約も、見知らぬ誰かからの愛も、今の私には必要ない。
ただ、この温かい日常が明日も続いてくれれば、それだけで十分なのだ。
「……そっか。うん、お母さんがそう言うなら、いっか! 私も、お母さんとひまりちゃんとずっと一緒にいるのが一番好き!」
ひかりは花が咲いたような笑顔になり、私の腕にぎゅっと抱きついてきた。
「……っっっ!!」
その瞬間、限界を迎えていたひまりの目から、滝のような涙が噴き出した。
「ひまりちゃん!? なんで泣いてるの!?」
「二人の言葉が嬉しくって……! あと、二人のやり取りが、尊すぎて……っ!」
ひまりは両手で顔を覆いながら、嗚咽を漏らして崩れ落ちた。
我が子が放った予想外の一撃は、どうやら彼女にはいささか刺激が強すぎたらしい。
私はやれやれと首を振りながら、泣き崩れるひまりのために、新しいハンカチを取りに席を立った。
私が新しいハンカチを手渡し、ひまりがどうにか涙を拭い終わった、ちょうどその時だった。
「あ、じゃあ、ひまりちゃんは?」
無邪気なひかりの矛先が、今度は目を赤くしているひまりへと向けられた。
「ひまりちゃんも、好きな人とかいないの? 保健室の先生だし、すっごく優しいし、絶対モテると思うんだけど」
その言葉に、ひまりはハンカチで目元を押さえたまま、時が止まった様に固まっていた。
先ほどまでの限界を迎えていた熱狂が、ふっと水を打ったように静まる。
「……私?」
「うん! ひまりちゃん、すっごく綺麗だから、ウェディングドレス姿とか絶対似合うと思うなー」
きらきらと目を輝かせるひかりを前に、ひまりは少しだけ困ったように眉を下げた。
彼女の胸の内に、どんな感情がよぎったのか。私には手に取るようにわかる。
十六歳という若さで、己の尊厳を無惨に踏みにじられ、絶望の淵に突き落とされた記憶。
あの日、彼女の腹に命の種を植え付けたあの男の影。
彼女にとって『男性』という存在や、そこから繋がる『恋愛』や『結婚』という営みは、とうの昔に忌まわしいものとして心の奥底に封じ込められているはずだ。
普通の人間が歩むような、誰かと愛し合い、家庭を築くという未来。
それを自ら放棄し、ただの『親戚のお姉さん』という仮面を被ってでも、この奇跡のような日常の片隅にいることを彼女は選んだ。
……だが、それをひかりが知る由はない。だからこそ、繰り出された、無邪気な刃。その刃がこれ以上ひまりを傷付けぬようにと、ひかりに声を掛けようとした瞬間だ。
ひまりがこちらを見て、ハッキリと首を横振る。
――そして、その眼差しは、『大丈夫』。そう言っているように感じた。
ひまりの顔に、過去のトラウマに怯えるような暗い影はない。
悲壮感も、痛切な自己犠牲の匂いもない。
彼女はただ、心の底から愛おしそうに、ひかりの柔らかな頬を指先でつついた。
「……残念だけど、ひまりちゃんには、そういう相手はいないかな」
「えー、なんで? こんなに可愛いのに、もったいないよ」
「理由はハルさんとひかりちゃんと一緒だよ。世界で一番大好きな人たちが、こんなに近くにいるもの」
ひまりはそう言って、ひかりを優しく抱き寄せた。
そして、私のほうをちらりと見て、まるでいたずらを見つかった子供のようにはにかんで微笑む。
「それに、こんなに温かくて……尊い世界を知ってしまったら。わざわざ他の誰かのところにお嫁に行きたいなんて、少しも思えないから」
「むー、そっかぁ。……まあ、ひまりちゃんがずっと一緒にいてくれるなら、私はすっごく嬉しいけどね!」
残酷なほど何も知らないひかりは、ひまりの腕の中でえへへと無邪気に笑っている。
自らが十月十日守り抜いた娘に抱きつかれながら、ひまりはどこか誇らしげに、満ち足りた表情を浮かべていた。
そこにあるのは、過去の傷に囚われた哀れな少女の顔ではない。
自分の意思でこの場所を選び、自分の足で立ち、愛する者たちを守り抜いている一人の強い女性の顔だった。
そう、私も、ひまりも。この歪で、けれど何よりも温かい箱庭の中で、すっかり満たされてしまっている。
私は小さく息を吐き、すっかり冷めてしまった二人の紅茶を淹れ直すため、静かに立ち上がった。
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