小さな太陽
ひかりがいない三日目の朝。
出勤していくひまりを見送り、玄関の扉を閉めた瞬間、家の中は曇天が空を覆い尽くしたような、重たい空気が満ちていった。
いつもなら、ひまりと一緒に「いってきます!」という元気な声が響き、バタバタと駆け出していく足音で満ちている時間だ。
それが無いだけで、この家はやけに広く、そして空虚に感じられた。
窓を開け、風を通す。
不在の気配を誤魔化すように、私は静かに家事を始めた。
掃き掃除をし、少しばかりの洗濯物を干し、棚の埃を拭き取る。
たかが二泊三日だ。なのに、あの子がいないと意識してしまうと、時計の針はやけに進まない。まるで、この家の時だけがねじれてしまったかのように。
そんな事を思う自分自身に呆れるように、ベランダから春の青空を見上げた私は、小さく息を吐いた。
◇ ◇ ◇
昼前になり、私はキッチンに立った。
冷蔵庫を開け、並んだ食材を見つめながら今夜の献立に思考を巡らせる。
帰ってきたら、何を食べさせてやろうか。
慣れない環境で三日間を過ごし、きっと疲れているだろう。まずは胃に優しい温かいスープ……玉ねぎの甘みをじっくりと引き出したオニオンスープにしよう。
メインは、あの子が好きなハンバーグにしようか。……ああ、でも初日は確かバイキングだと言っていた。それなら、きっとあの子は大好きなハンバーグを食べているだろう。……なら、角煮にしようか。材料はあるし、今からなら間に合うだろう。
――和食なら、やはり玉ねぎのお味噌汁にした方が良いだろうか。
そんな事が頭の中で堂々巡りの様に繰り返される。いつもはすぐに決まる献立が決まらないのは、きっと私の気持ちが浮ついている証拠だろう。
食後のデザートだけは既に決めてある。あの子の大好きなカスタードプリンだ。冷蔵庫を開けた時の喜ぶ顔が、今から目に浮かぶようだ。
久しぶりの、三人での食卓。
あれもこれもと欲張ってしまいそうになる自分を密かにたしなめながら、私は静かに野菜を刻み始めた。
トントンと、規則正しい包丁の音が、静まり返ったリビングに響く。
あの子が「美味しい」と笑う顔を想像しながら火の前に立つこの時間は、私にとってひどく穏やかで、満たされたものだった。
じっくりと角煮を煮込んでいる昼下がり。
スマートフォンが短く震え、仕事中のひまりからメッセージが届いた。
『ハルさん! 帰りの高速道路で渋滞に巻き込まれたらしくて、ひかりちゃんたちの到着が夕方にずれ込むみたいです! これなら私、定時ダッシュすればお出迎え間に合いそうです!』
画面の向こうで慌て、そして喜んでいるであろうひまりの姿を想像し、私は小さく口元を緩めた。
あの子が帰ってくる時間が遅くなるのは少しばかり惜しいが、ひまりも揃って出迎えられるのなら、それに越したことはないだろう。
◇ ◇ ◇
そして、日が静かに傾き始めた夕方。
「ハルさんっ! 先ほど無事に、バスが学校に着きましたよ!」
玄関の扉が勢いよく開き、定時を迎えるなり息を切らして学校から駆けつけてきたひまりが飛び込んできた。
彼女は着替えもそこそこに、ソワソワと落ち着かない様子でリビングを行き来し始める。
「解散式も終わったみたいですから、もうこっちに向かってるはずです。あー、なんだか待ち遠しくて、落ち着きませんね」
「……ひまり。落ち着きなさい」
私が静かにたしなめると、ひまりは「うぅ……」と唸りながらソファに座り直した。だが、その数秒後には再び立ち上がり、窓の外を覗き込んでいる。
そんな彼女の姿を微笑ましく思いながら、私はお味噌汁に仕上げの火を弱火で入れる。
やがて、再び玄関の扉が開く音が響く。
「たっだいまーっ!」
聞き慣れた、弾むような明るい声。
私がエプロンで手を拭い、リビングの入り口へと向かうよりも早く、ドタバタという元気な足音と共にひかりが飛び込んできた。
「おかえり、ひか――」
私の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
玄関からの勢いをそのままに、真っ直ぐに私に飛びついてきたからだ。
「お母さんっ!」
ぎゅっ、と力強い腕が私の背中に回され、温かな体温が押し寄せてくる。
いつもとは違う、春の高原の爽やかな風の匂いがした。
突然の抱擁に少し驚いたものの、私は自然と両腕を上げ、愛娘の背中を静かに、優しく撫でた。
「……おかえり、ひかり。どうだい、楽しかったかい?」
「うんっ! すっごく楽しかった!」
私の胸に顔を埋めたまま、ひかりが弾むような声で答える。
その声には、出発前にはなかった、ほんの少しの大人びた響きと、確かな自信が混じっているように感じられた。
「ひかりちゃん、次は私とハグですよ!」
私たちの様子を見ていたひまりが、口を尖らせながら歩み寄ってくる。
ひかりは私から体を離すと、今度はひまりに向かって満面の笑みで両手を広げた。
「ひまりちゃんも、ただいまーっ!」
「おかえりなさいっ!」
同じ薄茶色の髪色をした親子二人が抱き合う姿を、私は静かに、優しく見つめる。
「あ、そうだ! 二人にお土産買ってきたんだよ!」
ひまりから離れたひかりが、玄関に置いたボストンバッグの元へ駆け寄り、ゴソゴソと中を漁り始める。
そして、慎重に取り出してきたのは、丁寧に包装された二つの小さな箱だった。
「はい、これ! お母さんとひまりちゃんに!」
手渡された箱を開けると、そこには美しい瑠璃色と琥珀色の、ペアのグラスが収められていた。
光を透かしてきらきらと輝くそれは、見ているだけで心が透き通っていくような美しさだった。
「お土産屋さんで見つけたんだけどね。絶対に二人に似合うと思って、お小遣い奮発して買っちゃった!」
「……ありがとう。とても綺麗だ」
「ひかりちゃん……っ、私、これ一生の宝物にします……っ!」
ひまりが早くも目を潤ませながら、琥珀色のグラスを胸に抱きしめる。
私も、手の中にある瑠璃色のグラスを指先でそっと撫でた。
「ふふっ、二人とも大げさだよ。……さっ、早くご飯にしよ! お母さんのご飯、ずっと食べたかったんだから!」
私の腕を引きながら、キッチンへと向かおうとするひかり。
「……あぁ、すぐに準備をするよ」
私は静かに微笑み返し、足を踏み出す。
二泊三日。
字面にすれば多く見えるが、一日中顔を合わせなかったのはたった一日だ。
高校生になった娘が一日家を空けるなど、それ程特別な事ではないだろう。
……だが、不在は特別ではなかったとしても、彼女の帰還はいつだって特別だ。
日が沈み、昇るように。
朝の陽射しで街が、世界が動き出すように。
あの子が帰ってくることは、『光』が差し込むのと同義なのだ。
だって、あの子は、私たちの……。
――小さな太陽なのだから。
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