君からの贈り物
ひかりが宿泊研修へと旅立った日の夜。私がキッチンでひまりの好物を作り始めていると、玄関の鍵が開く音と共に、聞き慣れた声が響いた。
「ただいま帰りましたー!」
チャイムを鳴らすこともなく、当然のように我が家へと入り浸ってくるひまりは、仕事場からそのままの足で高速で帰還したようだった。
キッチンに立つ私の姿と、台所から漂う匂いで、自分のために料理が作られていることに気がついたのか、彼女はぱっと顔を輝かせて感激の声を上げる。
「ハルさん! もしかして、本当に私のために……!?」
「もうすぐできるから、先にお風呂に入ってしまいなさい」
浮き足立つひまりを冷静になだめると、彼女は「はーい!」と嬉しそうに脱衣所へと駆けていった。
やがて、シャンプーの匂いと共に風呂から上がってきたひまりは、食卓に並んだ湯気の立つ料理を見るなり、再び嬉しそうに目を輝かせた。
「ハルさんが私の好物を作って……くぅっ!」
子供のように無邪気に喜ぶ彼女を迎え、二人きりの、なんてことのない、だけ少しだけ違う夕食が始まった。
「では、いただこうか」
「はいっ! いっただっきまーす!」
ひかりがいない今夜は、少しだけ特別だ。普段の食卓には並ばないアルコールの入ったグラスを傾けながら、私たちはゆっくりと時間を共有した。
「この時期は保健室に来る子が増えるんですよねぇ……やっぱり、環境が変わると心と体のバランスを崩しやすいみたいで……」
仕事でのささいな悩み。生徒たちへの向き合い方。あるいは、スーパーの特売品の話といった、他愛のない日常の欠片。
アルコールが回るにつれて、ひまりは年相応の等身大の女性としての顔を見せていた。
やがて、すっかり酔いが回ったのだろう。ひまりは机に突っ伏し、静かな寝息を立て始めた。
「やれやれ……」
私は立ち上がり、ソファにあったブランケットを彼女の肩にそっと掛ける。
穏やかなひまりの寝顔を見つめていると、ふと、遠い昔の記憶が脳裏をよぎった。
――あれは、ひかりが生まれる少し前の夜だったか。
◇ ◇ ◇
臨月を迎え、精神の不安定さが一層顕著になり、毎夜毎夜悪夢に魘されるひまり。加えて襲いかかるのは妊娠による高血圧症状だ。
夜更け、ベッドの中で激しく呼吸を乱す彼女の背に触れ、私はその悪夢と不調を『身代わり』となって吸い取った。重苦しい泥のような痛みが私の中に流れ込み、代わりに彼女は、すやすやと穏やかな寝息を立て始めた。
早朝。私の『身代わり』に気が付いていたらしいひまりは、お礼を口にした後、痛むような瞳でこう尋ねた。
「ハルさんは、苦しくないんですか……? 人の苦しみをずっと肩代わりしてきたんですよね……昨日だって私の代わりに……」
「そうだね……苦しみや悲しみを受け止めるのが楽だとは言わない。……だが、今はもう、そういうものなんだと受け入れているよ」
私が淡々と答えると、彼女はひどく悲しそうな顔をした。
「……でも、ずっとそれじゃ、あまりにも……」
「……良いんだ。きっと、それが私の存在する『理由』なのだろうから……」
私の感情の乗らない声に、ひまりは何故か顔をくしゃりと歪ませる。そして、口を開きかけては閉じるということを何度か繰り返した後、意を決したように小さく言葉を紡ぎ始める。
「…………今はまだ、ハルさんに助けられてばかりで、お腹の子の事も背負えない私が言えることじゃないのは、十分分かってます。でも……」
「……でも?」
言い淀むひまりだったが、一拍の後、ハッキリと自分の思いを口にする。それは、私が彼女の苦しみを受け取った故の、一時の強がりだったのかもしれない。だが……。
「いつか……いつか私が……もし前を向いて歩けるようになったら……その時は、ハルさんに、楽しいとか、嬉しいとか、そういう明るい気持ちを『身代わり』して欲しいです」
「それは……」
私は、思いもよらぬ言葉に二の句を継げなかった。
数千年の悠久を生き、数え切れないほどの人間に出会ってきた。彼らが私に求めたのは、いつだって苦痛の押し付けか、理不尽な運命からの救済だけだ。
私の『身代わり』を、私のために使いたい等と言い出した人間は、ただの一人もいなかった。
そのあまりにも無謀で、眩しすぎる提案に、私の思考は完全に停止していた。
「……そんなことで恩返しになるなんて思わないですけど、今の私にはそれくらいしか思い浮かばなくて……」
話しながら少しずつ俯いていくひまりの姿を見るうちに、私は自然とその背中にそっと手を伸ばし、優しく擦っていた。
「その気持ちだけで、十分だよ。……ありがとう、ひまり」
「ハルさん……だけど、私は……」
ひまりがバッと顔を上げ、私の顔をじっと見つめる見つめる。言葉の裏にある優しい拒絶を敏感に感じ取ったのだろう。
精一杯の勇気で差し出したその手を押し戻され、酷く悲しそうな顔をして、再び俯いてしまう。それはまるで、自分の無力さに打ちひしがれているようにも見えた。
その健気で、あまりにも不器用な優しさに触れたためだろうか。私の中に……微かな感情の揺らぎが生まれていた。だからこそ、彼女の差し出す光をただ奪うのではなく、未来の約束として受け止めるために、私は言葉を紡ぎ直す。
「……だが、そうだね。……ひまりから温かい気持ちをもらうためにも、まずはその子を無事に産み落としてあげなくてはいけないね……」
「ハルさん……」
私の言葉の意図を察したのか、ひまりが弾かれたように顔を上げる。
そうして彼女の瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出していった。
窓の外の暗闇が、少しずつ薄れていく。
東の空から差し込み始めた柔らかな朝日が、静かに二人の部屋を満たして始め、夜の空気を塗り替えるような黄金色の光が、ひまりの涙と、私たちの小さな約束を優しく包み込んでいくのだった。
◇ ◇ ◇
――私は自ら席に座り直し、ワインの入ったグラスを傾けながら、改めてひまりの顔を見つめる。
その穏やかな寝顔を見ていると、なんだか胸の奥が静かな優しさに包まれていくような気がした。
「……身代わりなどなくても、君は、それ以上の贈り物を私にくれたね……」
静寂に包まれたリビングで、私の声は静かに、グラスの中に溶けるように消えていった。
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