成長の階
就寝前の我が家のリビング。
ダイニングテーブルの上には、高校から配られた大きな『宿泊研修のしおり』が広げられている。
表紙には、今回の研修地である緑豊かな高原のイラストが印刷されていた。
ソファーの上、大きなトラベルバッグを前にして、ひかりが荷物の最終チェックをしていた。
中学の修学旅行の時と比べても、随分と手際が良くなった。
高校の制服にも少しずつ馴染んできた彼女は、こうして自分のことを自分でこなせるようになりつつある。
「……お母さん、筆記用具としおりは入れた。あと、洗面用具とお風呂セットも大丈夫。向こうの山の方はまだ夜とか冷えるみたいだから、上着もちゃんと持ったよ」
「着替えは二泊三日分、過不足なく詰めたかい」
「うん、バッチリ。あ……お母さん、これ、やっぱり持っていっていい?」
そう言ってひかりがタンスから引っ張り出したのは、私が普段部屋着にしている、少しサイズが大きめの黒いパーカーだった。
「それは私のものだ。ひかりには丈が長すぎるだろう」
「いいの。これ、お母さんの匂いがして落ち着くんだもん。ホテルの部屋で着るの」
ひかりはパーカーをごく自然に胸に抱きしめ、へらへらと笑う。
高校生になって、背は私の肩を越えるほどに伸びたけれど、こういう無防備な甘え方はあの頃と何も変わらない。
「……好きにしなさい。向こうで失くさないようにね」
「わーい、ありがと!」
嬉しそうにパーカーを丸めてバッグの隙間に押し込むひかり。
静かなリビングに、カチリ、とバッグのファスナーを閉める音が響いた。
すべての準備を終えたひかりが、ふぅ、と小さく息を吐いて私の前に立つ。
「お母さん。明日から三日間、私いないけど……寂しい?」
少しだけ上目遣いに、私の顔を覗き込んでくる。
その真っ直ぐな瞳を見つめ返し、私は自分の胸の奥にある熱を、そのまま静かに言葉へと変えた。
「そうだね。少し、寂しいよ」
「え……」
いつもと違う、私の素直な返答に、ひかりは少しだけ驚いたように目を丸くした。
私はそんな愛おしい娘の顔を眺めながら、穏やかに言葉を続ける。
「だけどね、ひかり。その三日間の経験で、君がまた新しく成長して帰ってくるのだとしたら、私はそれをとても嬉しく思う」
私の言葉を、ひかりは噛み締めるようにじっと聞いていた。
やがて、その瞳にじんわりと温かい灯がともる。
「うん……! 私、いっぱい勉強して、友達ともたくさんお話して、ちょっとだけ大人になって帰ってくるね!」
嬉しそうに胸を張ったひかりが、私の腕に、その少し大きくなった身体をぎゅっと預けてくる。
背中に回される、確かな温かさと重み。
言葉に嘘はない。
少しの寂しさと、それ以上の大きな喜びを抱きしめながら、私はその愛おしい薄茶色の髪を、静かに撫でた。
「……じゃあ、寂しいお母さんのために、今日は一緒に寝てあげる!」
私の胸に顔を預けたまま、ひかりがふいにとびきりの笑顔でそう言った。
「明日から私がいなくて寂しいんでしょ? 高校生だけど、今日だけは特別に添い寝してあげるね」
私が先ほど口にした「寂しい」という言葉を都合のいい口実にして、ひかりは勝ち誇ったようにへらへらと笑う。
少しは自立したのかと思っていたのだけれど、それはもう少しだけ先の話らしい。
「……私の言葉を盾にするなんて、随分と言い訳が上手くなったね」
私は小さく息を吐き、腕の中の愛おしい頭を軽く小突いた。
「本当は、明日からの研修を前にして、君自身が寂しくて堪らないんじゃないのかい?」
「あ、ばれちゃった?」
図星を指されたひかりは、全く悪びれる様子もなく、むしろ嬉しそうに私の服の裾をぎゅっと握りしめてくる。
「……仕方がないね。そこまで言うのなら、今日だけは君の甘えに付き合うよ」
「わーい! やったぁ!」
嬉しそうに私の腕から離れ、足早に寝室へと向かっていくひかりの後ろ姿。
「さて……自立出来ていないのは私も同じか」
なんだかんだと言ってはみるものの、娘が自分の下から離れていくのはまだ少し寂しいらしい。そんな自分に思わず苦笑しながら、私はリビングの明かりを落とし、あの子の待つ寝室へとゆっくり歩みを進めた。
カチリ、とリビングの主電源を落とすと、部屋は一瞬にして夜の深い静寂に包まれた。
廊下の向こう、わずかに開いた寝室の扉から漏れ出てくる柔らかな電球色の灯りが、私の歩むべき足元を優しく照らしている。
静かに扉を押し開け、中へと入る。
大きめのベッドが鎮座する部屋の片隅で、ひかりはすでに中に潜り込み、私の分のスペースを開けて待っていた。
枕元に置かれた小さなスタンドライトの光が、あの子の薄茶色の髪を柔らかく縁取っている。
「お母さん、遅いー。待ちくたびれちゃうよ」
「……少し考え事をしていてね。ほら、そんなに端に寄ったら風邪をひくよ」
私は苦笑混じりに告げ、ひかりが嬉しそうに広げた掛け布団の隙間へと、滑り込むようにして横たわった。
布団に満ちていたひかりの体温が、私の器へと心地よく伝わってくる。
すると待ってましたとばかりに、ひかりが私の腕の中へと潜り込み、その柔らかな頭を私の胸元へと押し付けてきた。
中学生、そして高校生へと成長し、随分と大きくなったはずの身体。けれど、こうして腕の中に収まってしまうと、やはりあの出産の日に抱き上げた、小さな命の重みそのものだった。
「お母さん、あったかい……」
「温かいのはひかりの方さ。……眠れそうかい?」
胸元から聞こえる小さな呼吸の音に耳を澄ませながら、髪をそっと撫でる。
「うん。お母さんとこうしてると、すっごく安心するから。明日から三日間、友達と過ごすのも楽しみだけど……やっぱり、ここが一番いいな」
愛おしそうに目を細め、ひかりが私の服を小さく握りしめる。
「いくつになっても、その服を握る癖は抜けないようだね」
「こうするのが、一番落ち着くんだもん」
その言葉と仕草に、まだ幼く毎日一緒に眠っていた頃のひかりが一瞬だけ浮かんでは消えた。
「……ひかり」
「ん……?」
「向こうへ行っても、夜はちゃんと布団をかけるんだよ。友達と夜更かしをしすぎて、次の日の研修に遅れるような真似はしないようにね」
「はーい……分かってるよぉ……」
私の胸の鼓動を子守唄代わりにしているのか、ひかりの声は次第に、心地よい眠気の波へと溶けていく。
規則正しい、穏やかな寝息が静かな部屋に響き始めるまでに、そう時間はかからなかった。
すっかり眠りに落ちたひかりの、あどけない寝顔をじっと見つめる。
長い睫毛と、ひまりから引き継いだ美しい輪郭。
明日になれば、あの子は大きなバッグを抱えて、自分の足で新しい世界へと歩き出していく。
少しの寂しさはある。けれど、あの子が沢山の経験を積み、一歩ずつ大人になっていくその軌跡を特等席で見届けられることが、今の私にとっての、何よりの幸福だった。
「……いってらっしゃい、ひかり。良い夢を」
届かないほどの微かな声でそう呟き、私は陶器のような手で、愛おしい娘の身体をそっと抱き締め返した。
窓の外では、春を待つ静かな夜風が、優しく家を包み込むようにして通り過ぎていった。
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