両の手
「宿泊研修?」
夕食の席。ひかりから不意に伝えられた行事の予定に、私は箸を止めて聞き返した。
「うん、みんなでレクリエーションして、夜はホテルに泊まるみたい!」
ひかりは楽しそうに声を弾ませ、茶碗を両手で包み込むようにして笑う。
「そうか、そういえば何年か前にひまりが同行していたね……」
記憶の糸をたぐり寄せ、向かいの席で当然のように我が家の夕食に混ざっているひまりへと視線を向けた。
「はい、養護教諭なのでついて行かないと行けないんです! あ、でも、最近は学校養護教諭がいなくなるとマズイって話になって、添乗看護師を依頼するんですよ」
「確かに、養護教諭が数日も不在なのは宜しくないね。……とはいえ、他に養護教諭はいないのかい?」
「一応居るんですけど……高齢でお休みがちなんですよね。なので、私がついて行ってる時に急に休んだら誰も居なくなってしまうので、ここ一、二年は学校でお留守番してます」
「え〜、ひまりちゃん一緒に行かないんだ〜」
「そうなの……。ひかりちゃんを陰ながら見守ることもできないなんて……うぅ、寂しい……っ」
そう言って湯呑みを置き、ダイニングテーブルに突っ伏したひまりは、肩を震わせていた。
口では寂しいと嘆いているが、自分の仕事に誇りを持つ彼女のことだ。学校に残るというその責任の重さは、誰よりも理解しているだろう。
「大丈夫だよ! 私、ひまりちゃんが心配しなくてもいいくらい、元気に行って帰ってくるから!」
ひかりがそんな実の母親の背中に、優しく手を添えて笑いかける。
自分が十月十日、絶望と葛藤の中で必死に守り抜いた娘からの、真っ直ぐな励まし。ひまりはその温もりに弾かれたように顔を上げ、潤んだ瞳でひかりを見つめた。
「ひかりちゃん……っ。なんて良い子なの……。私、学校で首を長くして待っています! ……ん? ひかりちゃんがいないってことは、私とハルさんの二人きり……?」
「あぁ……君が実家で過ごさない限りはそういうことになるね」
「!! ……ひかりちゃん、私寂しいけど、ひかりちゃんの分もハルさんの美味しいお弁当を食べて、ひかりちゃんの分もハルさんの成分を吸い取って、ひかりちゃんの分もハルさんに添い寝しながら過ごすから……っ!」
「えーっ、ズルい! ひまりちゃん、いくらなんでもお母さんに添い寝するのは私の特権だもん! お母さんの成分もあげないよ!」
感涙の様相から一転、後半は完全に自らの欲望の吐露に変化しており、ひかりがむっと頬を膨らませて抗議する。
実の母と娘による、私を巡る意味の分からない所有権争い。
私は小さくため息をつき、淡々と告げた。
「ひまり。最後のは完全に君の願望だろう……。そんな予定は組まれていないよ」
「ううっ、容赦なくバッサリと……でもっ、その拒絶すらも神の慈悲……っ。ひかりちゃんがいない寂しさを埋めようとする哀れな子羊への、完璧な塩対応……尊い……っ!」
「……だめだ、完全に自分の世界に入っているね」
両手で顔を覆い、身悶えしながら限界を迎えているひまりを見て、私はもう一度息を吐いた。
「……添い寝は兎も角、ひかりがいない間は君の好きな物を作ってあげよう。何かリクエストを考えておきなさい」
「ハルさんっ……!! あああっ、塩対応からの致死量の甘やかし……っ! 何をリクエストするか三日三晩考え抜きます……っ!!」
私の一言で息を吹き返したひまりだが、今度は天を仰いで祈りを捧げ始める。
「あはは! ひまりちゃん、本当にお母さんのこと大好きだよね。でも、お母さんは私のなんだからね!」
ひかりはそう言って、椅子から身を乗り出すようにして私の腕にぎゅっと抱きついてくる。
それを見たひまりもまた現実に帰還し、反対の腕を取りに来る。
「ひかりちゃんズルい、私も反対の腕貰います!」
両腕を取られた私は、縫い付けられたように何も出来ないまま、溜息だけをつく。
だが……口では呆れたように振る舞いながらも、私の腕に伝わる二つの確かな温もりを、振り払うことは出来ない。
それはきっと、私自身もまたこの温もりを、心地良く感じているからなのだろう。
そうして……二人が満足するまでの暫しの間、身動ぎもせずにその両の手を、貸し与えるのだった。
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