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「身代わりに産んだ娘が、今日も『私』に甘えてくる」 ~概念代行:私が彼女の《母親:父親》になった日~  作者: かおもじ
『新たなるひかり』

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29/85

ハルさんのお買い物・ぱーとつー

 時間は少し遡る。


 入学式を終えた翌日、ひかりが実質的な初登校を迎えた初日のお昼頃。

 ハルはいつものようにエコバッグを手に、スーパーマーケットへと足を運んでいた。


 今日の彼女は、いつもと雰囲気が違う。

 数日前まで背中まで伸びていた漆黒の髪が、肩のラインで切り揃えられているからだ。

 歩くたびに、軽くなった毛先がふわふわと揺れる。


 自動ドアが開き、店内に足を踏み入れた瞬間。

 やはりというべきか、野菜売り場周辺の空気が一瞬だけピタリと止まった。


「ちょっと、見た……? ハルさん、髪切ったのね……」


「長い時も素敵だったけど、なんだか一段と若返ったみたい……」


 少し離れた特売コーナーの前で、先日もハルを見かけていた若い女性客が、隣の常連客に声を潜めて尋ねた。


「ねえ、本当にあの人に高校生の娘さんがいるの……? 髪を切って、なんだか一段と若返って見えるし……今日なんて、誰がどう見ても十代にしか見えないじゃない……」


「いやいや、本当なのよ。……それにしても懐かしいわねぇ。あの肩ぐらいの髪型、娘さんがまだ乳飲み子で、大事そうに胸に抱えられていた頃以来じゃないかしら」


「乳飲み子の頃からあの髪型……? あ、やっぱり高校生の娘さんがいるなんて嘘なんでしょ……! 本当は保育園とか、そのくらいで……」


「だから、その乳飲み子が今の高校生の娘さんなのよ。まぁ、にわかには信じられないよねぇ。でも、十五年前のあの頃から、あの人、一ミリも変わってないんだから」


 そんな常連客たちの驚愕と畏敬の入り混じった視線など、当のハルは気にも留めない。

 彼女の視線は、青果コーナーの『春キャベツ』へと鋭く注がれていた。


(……ふむ。今日はまた、一段と周囲の視線が鋭いね)


 ふんわりと緩く巻かれた葉と、みずみずしく鮮やかな緑色。それでいて、芯の切り口が五百円玉よりも小さく、ひび割れ一つない。そのすべての条件を満たした完璧な春キャベツをカゴに入れながら、ハルは心の中で一人頷いた。


 今日の自分には、一切の隙がない。

 前回の反省を踏まえ、今朝は服を着る前に生地の裏表を入念にチェックし、洗濯バサミの類が付着していないことを三度確認した。身なりは完璧、主婦としての立ち振る舞いもまた、最短ルートを選び抜く洗練されたものだ。


「ふっ……。同じ轍は踏まないさ」


 誰に聞かせるでもない、その一言を残し、残りの買い物を次々と済ませていく。


 ――ハルという存在は、本来、他者の持つ『陰』の感情にひどく敏感だ。

 数千年もの間、人の依代として苦しみ、悲しみ、怨嗟や絶望を吸い上げ続けてきた彼女は、負の感情には嫌というほど聡い。


 しかしその反面、自身に向けられる好意や憧憬といった『陽』の感情には、決定的なまでに鈍感だった。

 長い年月、陰ばかりを飲み込んできた代償なのか。純粋で温かな眼差しの理由を受信する機能が、彼女の心にはすっぽりと抜け落ちているのだ。

 ――ただ一つ、家族から向けられる絶対の愛を除いて。


 ゆえに彼女は、この熱烈な視線を――自身の『極まった主婦スキル』に対する畏敬の念だと、大真面目に勘違いしていた。


「いらっしゃいませ。あ、ハルさん! 髪、切られたんですね! すっごくお似合いです!」


 レジへと向かうと、そこには先日もレジにいた若いパートのお姉さんがいた。

 彼女はハルの顔を見るなり、ぱっと目を輝かせ、しかし直後にハルの頭頂部付近を凝視したまま、プルプルと肩を震わせ始めた。


「……ありがとう。少し短くしてみたんだ。……どうしたんだい? 今日はレジの調子が悪いのか?」


(あ……綺麗な髪のてっぺんに、デッカデカでド派手なピンクのお花リボンが咲いてる……! 一見、パリコレモデルみたいにクールで神々しい美人が、子供が付けるような無邪気なリボンを大真面目に付けてるって……はっ、これが究極のギャップ萌え!?)


 お姉さんは先日と同じく、「これを指摘して現実に戻してはいけない」という謎の使命感に駆られ、口を噤む。


「いえっ、なんでもないです! ただ、その、ハルさん……今日も本当にお綺麗で、可愛らしくて……っ!」


「……? ああ、君もお仕事頑張って」


 ハルは涼しい顔で会計を済ませ、エコバッグを肩にかけると、優雅な足取りで店を後にした。


 店を出て静かな住宅街を歩き出すと、心地よい春の風が吹き抜けた。

 短く軽くなった毛先が風にふわりと絡まり、首筋を優しく撫でていく。その少しくすぐったい感覚に、ハルは自然と自身の髪へと意識を向けた。


「やはり、切って正解だったかな。軽やかな気分だ」


 今朝も、ひかりが短くなった髪を見て『お母さん、すごく可愛い!』と満面の笑みで褒めてくれたのだ。


(……悪くないものだね)


 自分の在り方を静かに肯定し、柔らかな余韻に浸りながら歩いていると、前方から見覚えのある姿がやってきた。先日会った、近所のおばあちゃんだ。


「あらぁ、ハルさん。今日も一段とべっぴんさんだねぇ。特にその、頭に咲いてるお花が」


「ありがとう。おばあちゃんも、買い物かい? 足元には気をつけて。……お花……?」


 ハルはそこで、ようやく自身の頭頂部に違和感を覚えた。

 そっと手をやれば、指先に触れたのは、天に向かって立ち上がる短い髪の束と、そこに結びつけられた、子供の発表会で使うようなド派手なピンクのフサフサとした花のリボンの感触。


(…………あ)


 ハルの脳裏に、今朝の光景がフラッシュバックする。

『お母さん、髪短くて遊びやすい! これ、絶対似合うよ! お母さん、すごく可愛い!』

 そう、記憶には前段があったのだ。


(……不覚。着る前に服は完璧にチェックしたが、この頭頂部は完全に死角だったというのか……っ。いい大人がこんなものを頭に咲かせて歩いていれば、皆が注目するに決まっている……)


 ハルは誰にも気づかれないよう音もなく深く溜息をつくと、頭の上のド派手な花のリボンをスッと外し、そっとエコバッグの奥底へしまい込んだ。


 ――結局、どこまでいっても、行き交う人々ほ殆どが、頭の上のフサフサの花ではなく、彼女自身の美貌に見惚れていたという真実には、やはり最後まで気が付かないハルであった。


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