あなたの背中
新生活なんで、普段の生活のおさらいも込みの回でした。
午前五時半。
二人が起きてくる時間を見越して入れたばかりの暖房が、冷え切ったキッチンを少しずつ暖め始めている。
徐々にほどけていく空気の中に、規則正しい包丁の音が響く。
これまでひまりの分だけだった弁当箱が、今日からは二つ並んでいる。
一つから二つ。増えたはずの手間を苦に感じないのは、その先にひかりの笑顔が透けて見えるからだろう。
だし巻き卵の黄色。
アスパラの肉巻きの深い緑。
小さなペンギンの形に握られたおにぎり。
専用の抜き型で丁寧に形作り、隙間にピックを刺していく。
二人の喜ぶ顔を想像しながら動かす手には、一片の妥協も入る余地は生まれない。
「よし……」
満足げに二人分の弁当を完成させると、既に時計は六時を回っていた。
「……そろそろかな」
そう呟くのと同時、玄関から聞き慣れた足音が近づいてくる。
我が家から徒歩十秒。真横に実家があるひまりだ。
家と家の間に敷居はなく、彼女は実家から直通で我が家の玄関へとやってくる。
昨夜は「新年度やばいです、やること多すぎます、しんどい……」と嘆きながら、残った仕事を持ち帰って実家で寝たが、何もなければ週の半分以上は我が家で寝泊まりしている。
ひかりの高校生活が始まっても、私たちのこうした関係性が変わることはない。
「おはようございます、ハルさん……。あ、今日はやっぱり気合入ってますね!」
まだ眠たげな目を擦りながら、パジャマ姿のひまりがカウンター越しに弁当箱を覗き込む。
昨晩の疲労がまだ抜けきっていないようだが、淹れたてのコーヒーを飲み、朝食を食べ、弁当を持って出勤するのが彼女のルーティンだ。
「……今日からひかりも高校生だからね。半端なことは出来ないさ。勿論、君の分もあるよ」
「ふふ、ありがとうございます! これがあるから今日も一日頑張れます!」
そう言ってテーブルに座り、私の顔を眺めながらコーヒーを飲み始める。
こうして朝の支度をする私をのんびりと眺めるのが、彼女にとってのささやかな『癒しタイム』なのだという。
六時半。朝食の準備を整え、登校の準備に余裕を持たせるための、我が家の定刻だ。
ひかりは特別早起きが得意というわけではないが、基本的に早く寝るため、普段ならこの時間には自分で起きてくる。
しかし、今日は珍しく二階から足音が聞こえてはこなかった。
「……昨日の入学式で、少し緊張して疲れたのかね」
二杯目のコーヒーを片手に、私を見て幸せそうに目を細めるひまり。
その頭を優しくポンと撫でたあと、私は二階への階段を一段ずつ上がっていく。
階下から何やら奇声が聞こえているが、気にしないのが吉だろう。
そうして、平仮名で可愛く『ひかり』と書かれたネームプレートがぶら下がった部屋の前に立つ。
今日から新たに始まる生活。その数多の経験の中で、また少しずつ大人になっていくのだろう。
そんな彼女の少し先の未来に思いを馳せながら――。
「ひかり。そろそろ起きなさい。今日から本格的な高校生活の始まりだ」
そう、優しく、声を掛けた。
◇ ◇ ◇
校舎の三階。一年一組の教室は、新しい人間関係を構築しようとする十代特有の、微かな焦燥と熱気に満ちていた。
チャイムが鳴り、待望の昼休みが訪れる。
周囲の生徒たちが三々五々、机を寄せ合って賑やかに弁当を広げ始める中、ひかりは一人、自席で弁当箱を取り出した。
新入生代表として壇上に立った昨日の今日だ。周囲からの「近寄りがたい」という視線を、ひかりも敏感に感じ取っている。
けれど、彼女がそっと蓋を開けた、その時だった。
「……すごっ。なにそれ、めちゃくちゃ可愛い!」
後ろの席から身を乗り出してきたのは、中学からの友人であるみゆきだった。
その声をきっかけに、周囲の女子生徒たちが次々とひかりの机に集まってくる。
「ねえ、それってお母さんの手作り? ギャップありすぎじゃない?」
「ギャップ? なになに、どゆこと?」
少しノリの良さそうなクラスメイトが身を乗り出してくると、みゆきが周囲に説明するように声を弾ませた。
「ひかりちゃんのママ、めっちゃクールな感じの美人なんだよ! 昨日の入学式でも凄い目立ってたの見なかった? あんなにクールで綺麗なのに、こんなに可愛いお弁当作るなんて、ギャップエグ過ぎでしょ」
「あ、私覚えてるかも…… モデルさんかと思った。あの人、常盤さんのお母さんだったんだね」
別の控えめな女子生徒が呟くと、ノリの良い子が目を輝かせた。
「えー、マジで? 私、昨日見逃したかも! 見たい見たい、写真ある?」
興味津々のクラスメイトたちに囲まれ、みゆきが昨日撮ったスマートフォンの写真を見せ始める。
画面を覗き込んだ生徒たちから、溜息のような感嘆が漏れた。
「うわ、ほんとに美人! えー、やばっ。これ芸能人も裸足で逃げ出すレベルじゃん!」
「……ひかりちゃんが可愛いのも、納得しちゃうね」
「本当。お母さんがこれだけ美人なら、そりゃあね」
「いいなー。遺伝子ってずるいわー!」
無邪気に笑い合う彼女たちの中心で、ひかりは少し照れくさそうに、けれど嬉しそうに微笑んでいた。
昨日生まれた『代表』という壁。それは色鮮やかなお弁当を通して、教室の喧騒に溶けるように、いつの間にかなくなっていた。
◇ ◇ ◇
その日の夕食。
食卓には私とひかり、そして仕事を終えて我が家に帰還したひまりの三人が揃っていた。
「それでね、みんながお弁当見てすっごくびっくりしてて。お母さんの写真見たら、『遺伝子ってずるい』って言われちゃった」
ひかりが昼休みの出来事を弾んだ声で報告すると、向かいの席で味噌汁を飲んでいたひまりが、小さく噴き出しそうになった。
「い、遺伝子……っ。そっかぁ、ハルさんの遺伝子、ずるいかぁ」
ひまりは口元を押さえながら、どこか可笑しそうに、けれどとても優しい目で私を見た。
私とひかりに、血の繋がりはない。
ひかりの本当の「遺伝子」の持ち主は、今目の前で笑っているひまりだ。
その真実を知っているのは、私とひまり、それにごく一部の人間だけ。
肝心のひかり自身は、私が実の母親だと信じて疑っていない。
「……親子だから必ず似るというものでもないがね」
私が淡々と言うと、ひかりは当然のように頷いた。
「まぁ、そうだよね〜。でも、おじいちゃんもおばあちゃんも、私とお母さん仕草がそっくりだっていつも言ってるよ!」
「ふふ、そうですね。ずっとハルさんの背中を見て育ってきたんですから、ひかりちゃんがハルさんに似てくるのは当然ですよ」
ひまりが、温かな声で相槌を打つ。
ひかりにとっては「家族だから似てくる」という普通の会話。
けれど私とひまりにとっては、「血の繋がりを凌駕して親子になっている」という静かな肯定だった。
遺伝子という言葉の響きを、私はゆっくりと咀嚼する。
血の繋がりなどなくても、重ねた時間が私たちを確かに家族にしている。
今の私は、彼女たちと囲むこの賑やかで温かな食卓で、すっかり満たされていた。
「……そうかい、それは、悪くないね」
私が小さく呟くと、食卓に再び、穏やかな笑い声が広がった。
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