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「身代わりに産んだ娘が、今日も『私』に甘えてくる」 ~概念代行:私が彼女の《母親:父親》になった日~  作者: かおもじ


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『神様』

 私の人生は、あの男の身勝手な欲望と悪意によって、無残に踏みにじられ、完全に壊された。


 あの男は、私の父親の中学時代の担任であり、今は学年主任も務める、絵に描いたような『素晴らしい教育者』だった。


 両親も――特に父親は、自身の恩師でもある彼を深く尊敬し、全幅の信頼を寄せていた。だからこそ、放課後の薄暗い理科準備室に呼び出された時も、私は何の疑いも抱かなかった。


『君のお父さんには、私が新任の頃によく懐いてもらっていてね。その愛娘である君と話が出来るのは私も嬉しいんだよ。……前に相談があると言っていたからね、静かな場所を用意したよ……』


 目尻に優しい皺を刻んだ温厚な笑顔の裏で、男は周到に罠を張っていた。

 施錠された密室。彼は私のスマートフォンの電源を切らせると、不意に手元のボイスレコーダーを再生した。


 そこから流れてきたのは、以前私が彼に些細な相談を持ちかけた際の音声だった。だが、それは巧妙に切り取られ、繋ぎ合わされ……まるで『私の方から彼を誘惑し、対価として成績の便宜を要求している』かのように聞こえる、おぞましい捏造データへと変貌していた。


『大声を上げてもいい。だが、外の人間がこれを聞いたらどう思うかな?』


 状況が理解できず硬直する私の耳元で、男はひどく楽しそうに囁いた。


『私には長年この町で築き上げた地位と信頼がある。君はただの子供だ。泣き叫んでも、町の人々は“教え子の娘に陥れられそうになった可哀想な教師”の味方をする。……何より、君のお父さんが、自分の尊敬する恩師をたぶらかそうとした淫乱な娘を持ったと知ったら、どうなるだろうね』


 抵抗すれば、自分だけでなく、愛する家族の人生まで社会的に殺される。

 大人になった今なら、それがどれほど穴だらけの詭弁であり、卑劣なハッタリであるか容易に理解できる。だが、学校と家庭という狭い世界しか知らなかった十五歳の私に、それを看破することが出来なかった。


 絶対的な権力と、私の家族への想いを逆手に取った、逃げ場のない悪意。

 人の闇など知らずに生きて来た私の心は、その絶望と、抗うことなど到底できない大人の男の腕力を前に完全に麻痺し、突き飛ばす力すらも奪われてしまった。


 そこから始まったのは、終わりの見えない地獄。

 あの悍ましい記憶は、理科準備室での一回きりの悪夢では終わってくれなかった。


『特別に勉強を見てやっている。……親御さんには、そう言っておきなさい』


 放課後。あるいは休日の昼下がり。

 私は誰にも真実を打ち明けられないまま、見えない鎖で首を繋がれたように、あの男の家へと通うことを強要された。

 両親は『熱心な先生だ』と頭を下げて感謝すらしていた。その事実が、私をさらに深い絶望の底へと突き落とした。


 誰もいない男の部屋。あるいは、到底人には言えないような薄暗い場所。

 逃げ場のない空間で響く、内側から鍵をかけられる絶望の金属音。

 息が詰まるような、安っぽいコロンとタバコの入り混じった匂い。

 背中に伝わる冷たい床の温度と、私の尊厳を泥で塗りつぶしていくような、下劣でねっとりとした息遣い。


 男の悪意は、私の日常のすべてをじわじわと、けれど確実に侵食していった。


 いつからだろうか。

 世界が、ぐにゃりと歪んで見えるようになったのは。


 教室に座っていても、ふとした瞬間に天地が逆さまになったような強烈な目眩に襲われた。

 黒板の文字が這いずり回る虫の群れに見え、同級生たちの笑い声が、金属を削るような耳障りなノイズに変換される。

 自分が今、学校にいるのか、自分の部屋にいるのか、あるいはあの薄暗い密室にいるのか。空間の境界線がひどく曖昧になっていく。


『――いい子だ』


 鼓膜の奥にへばりついた、あの悍ましい声が突然フラッシュバックする。

 その度、視界の端が黒く焼け焦げたように欠落し、私はまともに呼吸すらできなくなった。

 家に帰って両親の顔を見ても、彼らが私の汚れた身体を指差して冷たく笑っているような幻覚が見えた。


 記憶が、ノイズ混じりの古いビデオテープのようにぶつ切りになっていく。

 昨日の夜ご飯に何を食べたか思い出せない。気づけば何時間もベッドの端で体育座りのまま固まっている。

 自分の輪郭が泥のように溶け出し、世界から自分という存在が少しずつ削り取られていくような、そんな圧倒的な喪失感と狂気。


 誰にも言えなかった。口に出せば、すべてが決定的な現実になってしまうのが恐ろしかった。

 吐き気に耐えながら、制服の下で膨らみ始めた絶望の重さに気づいた時には、もう『それ』を合法的に掻き出すことすら許されない時期を完全に過ぎていた。


 狂いそうだった。

 自分の皮膚を押し上げるように、日に日にせり出してくる腹。

 鏡に映るそのおぞましい肉の膨らみを見るたび、あの密室の鍵が閉まる音と、あの男の汚らわしい声が鼓膜の裏にへばりついて離れなくなる。


 自分の血管に、真っ黒な泥が流れているような圧倒的な嫌悪感。

 いっそこの腹を切り裂いて、あの男の汚らわしい血肉ごと、すべてを抉り出してしまいたい。

 呼吸の仕方を忘れるほどのフラッシュバックに襲われ、皮膚が赤く腫れ上がり、爪から血が滲むほど自分の腹を掻き毟った夜は、一度や二度ではない。


 なのに。


 憎悪と殺意で発狂しそうになる私の内側で。

 不意に『こつん』と、か弱くも確かな胎動が響くのだ。


 私という泥沼のような暗闇の中で、なんの罪もない、無垢で小さな命が必死に生きようとしている。

 その脈動を感じた瞬間、どす黒い憎悪の底に、小さな、本当に微かな愛情が芽生えたのを感じた。


 しかし――それは決して救いなどではなかった。


 胎動が力強くなるにつれて、私の中の愛おしさは少しずつ、けれど確実に大きくなっていく。

 だが、命が育つということは、あの男の痕跡が私の中で明確な形をとっていくということでもあるのだ。


 愛情が深まれば深まるほど。

 それと比例するように、腹の底を這いずり回るような憎悪もまた、悍ましく膨れ上がっていく。


 産みたくない。けれど、産んであげたい。

 あの男を殺したいほど憎いのに、この子は世界中の何よりも愛おしい。

 相反する二つの感情はどちらも消えることなく、私の中でひたすらに膨張し合い……自己矛盾でぐちゃぐちゃになった私の心は、ついに限界を迎えていた。



 ◇ ◇ ◇



 あの日。雪が降りしきる夜の公園のブランコに座りながら、私はただ、世界から自分が消えてなくなる順番を待っていた。


 或いは、真っ白な雪が真っ黒に汚れた自分の全身に降り積もれば、穢れと共にこの救いのない現実から抜け出せるのではないか。そんなことを思いながら。


 ……不意に、まるで突然そこに現れたかのように、人が立っていることに気が付く。そして、それと同時に、その誰かから話しかけられた。


『……隣、いいかな』


 そう声をかけてきたその人は、ひどく不思議な存在だった。


 優しさの中に空虚さを抱えたような声。

 目の前に確かにいるはずなのに、だけど何処にもいないような、錯覚を覚えるその姿。


 そんな彼の問い掛けに、私は何も答えないまま、ただ俯いていた。しかし、そんな私に視線を向けることすらなく、彼はただ隣のブランコに腰を下ろして、正面を見据えていた。


 私を哀れむわけでもなく、無責任に励ますわけでもない。ただただ、そこにあるだけの存在のように。


 どれほどそうしていたのだろう。


 その人の空洞のような気配が、私を締め付けていた濃密な絶望を、ほんの少しだけ薄めてくれたような気がして。

 私はふと顔を上げ、ひび割れた声でぽつりとこぼしていた。


『……どうして、何も言わないの?』


『君が、何も望んでいないからね』


 淡々とした返答に、私は少しだけ目を丸くし……やがて、自嘲するように力なく笑った。


『変な人。……でも、少しだけ、息がしやすくなった』


 小さく息を吐き、もう一度俯いて、自らの大きくなり始めた腹をそっと撫でる。


 その後、取り留めないやり取りを幾度か交わす。


 そして、ふと思い出したように隣の『彼』を見つめた。その顔は、消えてしまいたいと願った私以上に、今にも儚く消えてしまいそうな雰囲気を纏っていた。


『貴方の……』


『ん……なんだい?』


『貴方の名前は……?』


 そう問いかけると、彼は夜空を見上げて少しだけ記憶を遡るような仕草をした。


『なんだったかな……依代とか、形代とか、そういうふうに呼ばれることは多かったけど……君の好きに呼んでくれて構わないよ』


 その答えに私は困ってしまい、今日初めて、ほんの少しだけ感情を乗せた声を出した。


『……それじゃあ、呼び方が分からないよ』


 少しの間、沈黙して考え込む。

 そして、凍りついていた夜の空気を溶かすような、微かな声で紡いだ。


『……ハル、さん。……今日は立春だってテレビで言ってたから……だから、ハルさん』


『ハル……。うん、とても良い名前だ。ありがとう』


 彼の静かに微笑んだ顔を見た時、私の瞳から、ふいに大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。


 その顔には、瞳には、空虚のようで、その実、全てを慈しむ……或いは、全て許し受け入れる、神の如き『優しさ』が纏われていた。

 それが私の琴線に触れたのか、張り詰めていたものが決壊したのか、自分でも分からない。


『あれ、なんだろ……っ、変だな。別に泣くような事じゃないのに……っ、ひぐ、っあ……うぅ……っ』


 とめどなく溢れる涙と嗚咽。

 彼は敢えて何も語らず、ただ私が泣き止むのを静かに待ってくれていた。


 幾ばくかの時が過ぎ、ようやく落ち着きを取り戻した私は、目元を真っ赤にしながら呟いた。


『ぐすっ……ごめんなさい、初めて会った人の前で、訳分かんないですよね……』


『……良いさ。きっと冷たい雪と夜風のせいだろう。ここは冷える、家まで送ろう』


 小さく首を振りながら答えるその静かな声。

 それが、私と私の『神様』との出会いだった。



 ◇ ◇ ◇



『――私が、代わりに産もう』


 実家のリビングでハルさんがそう言った時、私は自分の耳を疑った。

 奇跡を何度も目の当たりにした。でも、信じられなかった。その力を、ではない。見ず知らずの他人のためにそこまでしてくれるその心根をだ。


『私、もう限界なの……っ。だから……この人を信じたいの。お願い……!』


 だが、気が付けば私はそんなことを口走っていた。

 両親にそう叫んだのは、狂いそうな現実から逃げ出したかった私の、身勝手なエゴだった。


『ねぇ、ハルさん。一つだけ聞かせて……どうして、そこまでしてくれるの……?』


 聞かずにはいられなかった。何故、私のような愚かな人間に手を差し伸べてくれるのか。


『強いて言うなら……あの夜、君が名をくれた事かな……』


 そう言った時のハルさんの顔は、今も忘れられない。


 そこからの日々は、地獄のような、けれど奇妙なほど静かな祈りの時間だった。

 ハルさんは実家に留まり、十月十日の間、お腹が大きくなるたびに狂いそうになる私を支え続けてくれた。


『……少しだけ、受け取ろう』


 その静かな声と共に、ハルさんは私の背中にそっと手を添える。

 すると、その間だけは、濁流のように押し寄せていた私の心に静寂が訪れる。


 代わりにその時、ハルさんは、物悲しそうな瞳でいつも私を見つめるのだった。


 根本的な解決にはならない。それでも、ハルさんは私の心が完全に壊れてしまわないよう、一番大切な部分を守る防波堤になり続けてくれた。



 そして、運命の日。



 陣痛が始まり、痛みにのたうち回る私の傍らで、ハルさんは静かに私の因果を引き受けた。

 次の瞬間、私を襲っていた痛みが嘘のように引いていき、代わりにハルさんの体が強引に『女性』へと作り変えられていく。


『――っ!?』


 声にならない叫びが、部屋に響き渡った。

 ハルさんの身体が大きく反り返り、シーツを握りしめるその手から血が滲む。

 骨が砕け、肉が裂けるような、常軌を逸した激痛。

 それは、本来なら私が、私の責任として引き受けなければならなかった痛みだった。


『ハルさん……っ、ハルさんっ……!』


 私は泣き叫びながら、汗に塗れたハルさんの手を必死に握りしめた。

 ごめんなさい。ごめんなさい。私のせいで。私が弱いばかりに。

 狂おしいほどの罪悪感と、それ以上に、私のために命を削ってくれるこの人への祈りが、私の胸を激しく叩き続ける。


 視界が白く明滅するほどの激痛の中で、ハルさんは血まみれになって下腹部に力を込めた。

 そして――。


『オギャアァァァッ! オギャアァァァァッ!』


 血の匂いが立ち込める部屋に、新しい命の、力強い産声が響いた。


 へその緒を切られ、湯浴みを終えたその小さな赤子を。

 血と汗に塗れたハルさんが、震える腕で大事そうに抱き上げた時。


 今まで空っぽだったハルさんの瞳に、見たこともないほど温かく、深い愛情の光が宿るのを、私は確かに見たのだ。


 しかし、それとは引き換えに、生まれて来た赤子を見た私の心の臓は、鼓動を止めてしまいそうなほどの拒絶を示す。


『私、最低だ……。せっかく生まれてきたのに……ハルさんが産んでくれたのに……! 愛しいって、思えない。ただ、気持ち悪いって……そう、思っちゃう……っ!』


『……いいん、だよ。……ひまり、君がそう、思うのは、当たり前の……ことなんだ』


 ハルさんが身体を変えるために使ったのは、私の『母性』だと言う。だから、私はこの子を受け入れられないのだと。


『……名前……どう……しようか?』


 荒い息を吐きながら、ハルさんが微かに微笑みかけてくる。

 決して望まれた子ではなかった。今日この日まで、名前を考えようなどという空気になれるはずもなかったのだ。


『私に……名前をつける資格なんて……っ』


 お腹の子を憎んだ夜が、何度もあった。消えてしまえと願ったこともあった。

 今も直視することすらできない。そんな母親失格の私が、この子に名前を与えるなんて。

 嗚咽を漏らす私に、ハルさんはゆっくりと首を振った。


『君が……十月十日、身を削って守り抜いた命だ。……君にしか……つけられないよ』


 その言葉に背中を押され、私は震える声で告げる。

 どん底だった私の人生に、ハルさんが微かな『光』をもたらしてくれたように。


『……ひかり』


 自然と、その言葉がこぼれ落ちていた。


『いつか……いつか、私と、ハルさんの……暗闇を照らしてくれる……ひかり』


『……ひかり。うん……とても、温かい名前だ』


 そう呟いた時のハルさんの顔は、なによりも美しく見えた。



 ああ。


 この人が、私のすべてだ。


 私の痛みも、絶望も、罪も。全部引き受けて、私の代わりに血を流し、命をこの世界に産み落としてくれた人。

 この奇跡を前にして、『神様』以外のなんと呼べばいいのだろう。


 だからこそ、いつか私は、命を懸けて、ハルさんに恩返しをしなければならない。


 例えこの先、どんなことがあっても。

 私にとって、ハルさんはたった一人の神様で、私のすべてだから。


この度は私の作品をお読み頂き誠に有難う御座います。

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