雪景色
夜の帷が落ちきる少し前、私たちは大浴場から部屋へと戻った。
男湯から一足先に戻っていた誠は、すでに浴衣姿で座卓の前に陣取り、「おっ、みんなおかえり。こっちも丁度いいタイミングだ」と上機嫌に笑った。
い草の香りがしていた和室には、今や出汁と醤油のなんとも食欲をそそる匂いが満ちている。
部屋の中央に置かれた大きな座卓には、所狭しと豪華な夕食の膳が並べられていた。
氷の敷かれた大きな鉢には牡丹海老や帆立、艶やかな鮪の刺身が盛られ、一人用の小鍋からは固形燃料の青い炎に乗って、ふつふつと湯気が立ち上っている。そして何より目を引くのは、大皿に豪快に盛り付けられた立派な毛蟹だった。
「うわぁ……! カニだ! お刺身もいっぱーい!」
「ふふ、今日は特別だからね。おじいちゃん、奮発してくれたのよ」
「わぁっ、おじいちゃんありがとう! すっごく美味しそう!」
目を輝かせてお礼を言うひかりに、誠は「おう、いっぱい食べなさい」と目尻を下げた。
早苗も優しく微笑みかけ、私たちはそれぞれの席へと腰を下ろした。
「よし、それじゃあ……ハルさんも、一杯いかがかな? 地元の良い冷酒を頼んだが」
誠が嬉しそうにガラスの徳利を持ち上げる。
私は小さく頷き、お猪口を手にする前に、誠と早苗に向けて静かに頭を下げた。
「おじいちゃん、おばあちゃん。宿の手配から長時間の運転まで……何から何まで、本当にありがとう。おかげで、ひかりもとても楽しそうだ」
「いやいや、頭を上げてくださいハルさん! 俺たちもこうして皆で旅行ができて、本当に嬉しいんだ。さぁさぁ、まずは一杯!」
誠は照れくさそうに笑い、私の差し出した小さな切子のお猪口へと、トクトクと心地よい音を立てて透明な液体を注いでくれた。
それぞれのグラスとお猪口に行き渡ったところで、誠がえっへんと少しだけ姿勢を正した。
「それじゃあ。ひかりの高校合格と、中学校の卒業を祝って……それから、家族みんなのこれからの日々に! 乾杯!」
「「「乾杯!」」」
グラスとお猪口が軽く触れ合い、小気味良い音が部屋に響く。
私は静かに杯を持ち上げ、少しだけ開いた浴衣の襟元を片手で押さえながら、口元へと運んだ。
芳醇な米の香りと、すっきりとした冷たい喉越しが心地よい。
「……ッ、あ……」
ふと視線を感じて顔を向けると、正面に座っていたひまりが、箸を持ったまま完全に石化していた。
彼女の視線は、私の顔と、手元の切子グラス、そして浴衣の襟元から覗く首筋あたりを物凄いスピードで反復反復している。
「……おや? もしかしてどこかに溢れていたかい?」
「ち、ちがい、ます……。ハルさんの、浴衣越しのうなじと、お猪口に添えられた指先の所作が、あまりにも……ッ! あの切子グラスになってハルさんの唇に触れられるなら、私、来世はガラス細工でも構いません……ッ!」
「ひまり、ご飯の時くらい静かになさいな」
早苗の呆れたような声と共に、ひまりの額がすっと伸ばされた指で小突かれた。
「痛っ!? ひどいよお母さん! ハルさんの色気があふれ出てるのがいけないんだもん!」
「お母さん、お猪口持ってるだけで色気なんて出してないでしょ。ほら、ひまりちゃんも早くカニ食べなよ。おじいちゃんがいっぱい剥いてくれてるよ」
呆れたように言うひかりの皿には、誠の手によって綺麗に殻を剥かれたカニ身が次々と置かれていく。
「お父さん、私が剥きますから、一旦手を休めて食べたらどうですか? 運転もして疲れているでしょう。……本当に、いつもありがとうね」
早苗が労うようにお猪口でお酒を注ぐと、誠は「ああ、ありがとう。……だが、大丈夫だ。今日の主役に、私が沢山蟹を剥いてやりたい」と、どこか嬉しそうにハサミを動かしていた。
「ほら、ハルさんも。せっかくですから、遠慮せずに」
誠が、綺麗に剥かれた毛蟹の脚身に、濃厚なカニ味噌を少し添えて小皿に乗せ、私へと差し出してくれた。
私は「ありがとう」と短く礼を言い、その贅沢な一口を口へと運ぶ。
舌の上でほろりと解けるような繊細で強い甘みと、毛蟹特有のコク深い味噌がねっとりと絡みつく。そこにすっきりとした辛口の冷酒を流し込むと、極上の旨味が口の中いっぱいに広がり、思わず小さく息が漏れた。
「どう? お母さん、美味しい?」
口の周りに少しだけカニの身をつけながら、ひかりが無邪気に笑いかけてくる。
その隣では、ひまりが「ああっ、カニを食べる所作まで神々しい……!」と拝み倒し、早苗がやれやれとため息をついている。
「ああ。……とても、美味しいよ」
賑やかな家族の顔が、グラスの底で揺れる透明な液体に反射して映っている。
私は静かに微笑み返し、もう一口、冷酒を含む。
その後も頬の緩みを隠すことなく、深く静かな夜の宴に身を委ねていくのだった。
◇ ◇ ◇
豪華な夕食の宴もすっかり落ち着き、和室には心地よい静寂が満ちていた。
お腹いっぱいカニを食べたひかりちゃんは、すっかり安心しきった様子で座布団の上に丸くなり、すーすーと幸せそうな寝息を立てている。
長時間の運転とアルコールが回ったお父さんも、壁際に寄りかかったまま気持ちよさそうに舟を漕いでいた。
「ふふ、二人ともすっかり疲れちゃったみたいね」
お母さんは優しく微笑みながら、眠るひかりちゃんの薄茶色の髪をゆっくりと撫でている。
そんな平和な光景を眺めていると、無性にハルさんと二人きりで話したくなって、私は隣に座る彼女の浴衣の袖をそっと引いた。
「ハルさん。……せっかくの温泉ですし、夜のお湯にも浸かってきませんか?」
眠る二人を起こさないよう、声を潜めて誘うと、ハルさんは静かに頷いてくれた。
◇ ◇ ◇
夜の露天風呂は、夕暮れ時の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
「夕方とは、また違う趣がありますね〜」
「……ああ、これもまた格別だね」
そう口にしながら、すやすやと眠っていた愛しいひかりの姿を思い返す。
「ひかりちゃんにも味わわせてあげたかったなぁ」
「そうだね……だが、君とひかりが揃うと折角の静寂が掻き消えてしまう。……たまにはこういうのも悪くないだろう」
その言葉の通り、ひかりは勿論、他の客の姿もなく、こんこんと湧き出る湯の音だけが、仄暗い空間に響いている。
「そうですね。ハルさんとひかりちゃんが一緒だと、ついつい嬉しくなって騒いじゃって……」
「……そうだね……君とひかりが一緒に笑い合えるようになるまで、幾ばくかの時間を要したからね。それも仕方ないさ……」
ハルさんの穏やかな、けれど全てを見通しているような声。
その言葉に、少しだけ胸がざわつく。
それは、もう遠い、過去。
大人になり、思い出と言えるようになった記憶。
大丈夫。私は、大丈夫。
「おや?」
不意に、ハルさんが夜空に視線を向けた。
「あ、雪ですよ! ハルさん、雪降ってきましたよ!」
ハルさんの呟きに意識を戻し、空を見上げれば、夜空から白い結晶がひらひらと舞い落ち、湯煙に触れては儚く溶けていく。
3月の北海道。春とはいえ、山間の夜はまだ冬の冷たさを色濃く残し、その名残を齎してくる。
「ああ。……これは、中々……」
(雪とハルさん……! 絶対、絵画レベルで最高に尊い組み合わせ……!)
私はいつもの調子で、その美しい情景を目に焼き付けようと、勢いよくハルさんの方へと振り向いた。
しかし――その顔を見た瞬間、私の思考は完全に停止した。
雪景色を眺めるハルさんの、完璧な横顔。
艶やかな黒髪に白い雪が降りかかるその情景は、あまりにも美しくて、そして――どうしようもないほど、あの日の私の記憶を激しく揺さぶった。
「『神様』……」
そうして、気づけば、私の唇からそんな言葉が零れ落ちていた。
この度は私の作品をお読み頂き誠に有難う御座います。
本作をお読み頂いた上で少しでも面白い、続きが読みたいと思って頂けましたなら
・ブックマークへの追加
・画面下の「☆☆☆☆☆」からポイント評価等をして応援して頂けますと作者の励みになります。
何卒宜しくお願い致します!




