雪解けの春と温かな光
「……ひまり?」
不意に、湯煙の向こうから私を呼ぶ、涼やかで優しい声が響いた。
その声にハッと意識を引き戻された瞬間、自分の視界がぐにゃりと歪んでいることに気がついた。
ぽたり、とお湯の水面に小さな波紋が広がる。
頬を伝う熱い雫。私は、無意識のうちにボロボロと泣いていたのだ。
「あっ……えっと、ちがっ、これはですね!?」
あの日の記憶と、そこから今日まで続く思いの形に引っ張られていた私は、慌てて両手で顔を覆い、あたふたと首を振った。
「目に、ちょっと雪が入っちゃって! あと温泉の蒸気で! いや違う、ハルさんの横顔があまりにも美しすぎて、限界オタクの魂が浄化の涙を流しているだけでして……っ!」
いつものように早口で誤魔化そうとするけれど、声が情けないほどに震えてしまう。
過ぎた事だと、切り替えようとすればするほど、記憶が、気持ちが、過去に引っ張られていく。
私はもう三十二歳の大人で。
(――大人? 自分で子供も産めなかったのに?)
少しずつ心に折り合いを付けて。
(――ハルさんに甘えて、目を逸らしただけじゃなくて?)
頑張って生徒を支える養護教諭になって。
(――アイツとは違うって否定したかっただけじゃなくて?)
今はハルさんとひかりと一緒に幸せで。
(――二人に依存してるだけじゃなくて?)
思考で否定すればするほど。
頭の中が、ぐるぐるぐると。
次第に目の前も、ぐるぐるぐると。
誰かの、自分の、声が、声が、聞こえて、聞こえて……。
ちゃぷん。
水の……音?
「あっ……」
次の瞬間。
ふわりと、冷たい夜気を遮るように、温かくて柔らかい腕が私の身体を包み込んだ。
「……無理に誤魔化さなくていいんだ、ひまり」
少しだけ身を屈めたハルさんが、濡れた私の薄茶色の髪を、壊れ物を扱うように優しく撫でる。
耳元で聞こえる、ハルさんの静かで、トクン、トクンという規則正しい心音。それは、あの日私を深い絶望から救い出してくれた、世界で一番安心する音だった。
「君は、よく頑張ったよ。……あの日から今日まで、ずっと」
海よりも広く、深い、温かな慈愛に満ちたハルさんの声。
その優しい声帯の響きが、私の中に残っていた微かな痼も強がりすらも綺麗に溶かしていく。
「ハルさん……っ、ハルさぁん……っ」
私はもう誤魔化すのをやめて、ハルさんの華奢な背中に腕を回し、子供のように声を上げて泣いた。
舞い落ちる雪の冷たさも忘れるくらい、ハルさんの腕の中は、どうしようもないほどに温かかった。
◇ ◇ ◇
ひとしきり泣いて、心の奥底に溜まっていた重たい澱をすべて吐き出した後。
すっかりのぼせてしまった私は、夜の冷気で火照りを冷ましながら、静かに部屋へと戻った。
襖をそっと開けると、部屋の明かりはすでに小さな常夜灯だけになっていた。
お父さんとお母さんは、並んで敷かれた布団で既に深い寝息を立てている。
そしてその隣には、布団を蹴飛ばして大の字になっている、愛らしいひかりの姿があった。
「ふふっ……相変わらず、寝相悪いなぁ」
私は音を立てないように忍び足で近づくと、畳にはみ出していた彼女の腕を布団の中へと戻し、乱れた襟元をそっと直した。
規則正しく上下する小さな胸。ほんのり桜色に染まった、無防備で幸せそうな寝顔。
十六年前のあの日。
血まみれで産み落とされたこの子を見た時、私は激しい拒絶に襲われた。
自分の腹の中で育っていた命なのに、おぞましい男の痕跡が重なって、どうしても愛しいと思えなかった。
けれど、今は違う。
私と、ハルさんが守り抜いた命。
名前の通り、私たちの暗闇に差し込んだ、たった一つの温かい『光』。
すー、すー、と心地よい寝息を立てるひかりちゃんのふんわりとした前髪を、指先でそっと撫でる。
その体温が、指先から私の心の一番奥まで、じんわりと広がっていくのを感じた。
(……生まれてきてくれて、本当にありがとう)
声には出さず、心の中でそっと呟く。
絶望の中で、命を絶たなくてよかった。
この子が、この世界に産まれてきてくれて、本当によかった。
「……良い寝顔だね」
背後から、静かな声が降ってきた。
振り返ると、お風呂上がりの黒髪をタオルで拭きながら、ハルさんが優しく微笑んで立っていた。
「はい。……本当に、天使みたいです」
私がそう答えると、ハルさんはゆっくりと私の隣に腰を下ろし、愛おしそうにひかりの寝顔を見つめた。
その横顔は、十六年前の雪の夜に見せてくれた『神様』の顔から、すっかり人間らしい『母親』の顔へと変わっている。
「ハルさん」
「ん?」
「私、本当に幸せです。……ハルさんと、ひかりに出会えて」
面と向かって伝えるのは少し照れくさかったけれど、今夜はどうしても言葉にしておきたかった。
ハルさんは少しだけ目を丸くした後、ふわりと、花が咲くように柔らかく微笑んだ。
「私もだよ、ひまり。……君たちがいてくれるから、私は今、ここにいる」
ハルさんの温かい手が、ひかりちゃんのおでこを撫で、そのまま私の頭にもポンと優しく置かれた。
窓の外では、まだ雪が静かに降り続いているのだろう。
けれど、この部屋の中は、これ以上ないほど温かくて、優しい光に満ちていた。
ハルさんの手のひらの温もりに目を細めながら、私も自分のために敷かれた布団へと潜り込む。
右には、健やかな寝息を立てるひかりちゃん。
左には、静かに横たわるハルさん。
愛しい二人に挟まれる形で床に就いた私は、布団の中でそっと、左右へと手を伸ばした。
右側のひかりは手を握っても身動ぎもせずに眠っており、左側のハルさんは一瞬だけ、やれやれと呆れたような気配を見せたけれど、すぐに、私の伸ばした手を、温かく、優しく握り返してくれた。
繋いだ手から伝わってくる、得も言われぬ安心感。
私はその心地よい温もりに安堵し、もう一度、愛しいひかりの寝顔を見つめながら、あっという間に静かな夜の底へと意識を沈めていった。
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