温もりの中で
動物園を後にした私たちは、誠の運転する車で市外の温泉街へと向かい、本日の宿となる老舗の旅館へと到着した。
仲居に案内されて通されたのは、い草の香りが清々しい、五人でくつろいでも十分すぎるほどの広さを持つ和室だった。
窓の向こうには、まだ雪化粧を残す渓谷の景色が広がっている。
「うわぁーっ! すっごくおっきいお部屋! 畳だー!」
靴を脱ぐなり、ひかりが弾かれたように和室へと駆け込み、ふかふかの座布団の上へとダイブした。
「ああっ、ひかりちゃん! 障子にぶつからないように気をつけてね! あと、座布団は滑るから転ばないように!」
はしゃぐひかりと、その後ろを心配しながら付いていくひまりの姿は、心配性な母のようでもあり、優しい姉のようでもあった。
そんな賑やかな二人の背中を横目に、私は手荷物を部屋の隅へと静かに下ろした。
座卓の向こうでは、誠と早苗が「いやぁ、無事に着いてよかった」「お父さん、長時間の運転お疲れ様でしたね」と、さっそくお茶請けの温泉饅頭に手を伸ばして一息ついている。
「二人とも、はしゃぐのも良いが、まずは夕食の前にお湯をいただいてこよう。外を歩き回って、すっかり身体も冷えただろう」
私がそう提案すると、座布団に顔を埋めていたひかりが「温泉行くー!」と勢いよく飛び起きた。
「温泉……っ! ハルさんと、混浴……っ! ブフォ……っ!」
ひまりが口元を両手で覆い、何やらブツブツと限界めいた呟きを漏らし始めている。
その瞳孔が微かに開いているのを見て、私は小さく息を吐いた。
「ひまり。あまり長湯をして、のぼせないように気をつけるんだよ」
「はいっ! ハルさんの美しさに溺れても大丈夫なように、しっかりと命綱を握りしめて挑みます!」
「……君はこれから、潜水でもしに行くつもりかい?」
やれやれと苦笑をこぼしながら、私はあらかじめ用意されていた浴衣の束へと手を伸ばした。
◇
山の緑に囲まれた、趣のある露天風呂。
男湯へ向かう誠の「俺だけ一人か……誰かに背中、流してほしかったなぁ」という哀愁漂う呟きを見送り、私たちは女湯の暖簾をくぐった。
長い髪をまとめるために脱衣所で少し手間取った私が、三人に遅れて大浴場へと足を踏み入れた時のことだ。
湯煙の向こうの洗い場から、「ひまりちゃん、おばあちゃん、温泉いっぱいあるね! どれから入る?」「ひかりちゃん、先に身体を洗わないと。ほら、お母さんも先に身体洗ってるでしょう?」という、ひかりとひまりの賑やかな声が聞こえてきた。
微笑ましく思いながら私がそちらへ近づいていくと、こちらに気づいたひまりが、突如として両手を強く握り締め、酸欠になった金魚のように口をパクパクとさせ始めた。
「……ッ、あ……ひゅ……っ」
そして、限界を突破したようにカッと目を見開き、ワナワナと震えながら早口で捲し立てる。
「ハ、ハルさん……ッ! 造形が、美の暴力がカンストしてます……! 湯煙すらハルさんの神々しさを際立たせるためのエフェクト……! 完全にルーヴルに飾られるべき神話の沐浴シーンです……! 私、今ならこのお湯ごと飲み干して涅槃に行けます……ッ!」
拝み倒そうとするひまりに、早苗が呆れたようにため息をついて嗜めた。
「こら、ひまり。公共の場で変なことを言わないの。ハルさんが困ってるじゃない」
「だって、誰がどう見ても完璧な美の化身でしょ! ねぇ、ひかりちゃんもそう思うよね?」
「まぁ、お母さんが美人なのは本当だけど……」
賑やかにじゃれ合う三人のやり取りに、私は小さく苦笑しつつ、空いている洗い場へと腰を下ろした。
蛇口を捻って桶に湯をため、静かに自分の肩へとかけると、隣で身体を洗っていたひかりが、私の背中に小さなタオルを当てる。
「お母さん、背中流してあげる。……あっ、でもお母さんの肌、ツルツルすぎてタオルが滑っちゃうかも」
「ありがとう、ひかり。……では、私も君の背中を流してあげよう」
私は涼しい顔で娘に微笑み返し、交互に背中を洗い合う。
そうして洗身を終えた後、内湯で先に温まっていた早苗たちと合流し、四人揃って外の広い露天風呂へと足を踏み入れた。
「あら〜、凄いわねぇ」
目の前に広がった光景に、早苗が感嘆の息を漏らした。
自然の岩を豪快に組んで造られた湯船は、十数人が入ってもまだ余裕がありそうな広さだ。こんこんと湧き出る源泉が小さな滝のように注ぎ込み、湯煙の向こうには、まだ冬の面影を残す水墨画のような渓谷のパノラマが広がっている。
「すっごーい! お風呂っていうか、もうプールみたい!」
「綺麗、だけど……この壮大なロケーションすら、ハルさんを引き立てるための巨大なセットに見えてきました……ッ!」
「こら、ひかりちゃんはお湯の中で泳がない。ひまりは早く正気に戻りなさい」
早苗の的確なツッコミが響く中、私も静かにお湯へと身を沈めた。
肩までお湯に浸かると、山の涼やかな風と、心地よい熱が身体の芯まで染み渡っていく。
隣では、私を凝視して涎を垂らしているひまりを、早苗が「ほらひまり、涎を拭きなさい。みっともないわよ」と呆れ顔で諌めている。
私はその生温かい視線をスルーしつつ、露天風呂の縁から景色を眺めていたひかりの声に耳を傾けた。
「お母さん、見て! 夕焼け、すっごく綺麗!」
湯煙の向こう。山の稜線へと沈みゆく夕日が、残雪の白と木々の黒で彩られた渓谷を黄金色に染め上げている。
目の前に広がる美しい情景に感動し、目を輝かせる娘の横顔に、私は静かに微笑んで同調した。
「ああ。……本当に、綺麗だね」
私は静かに目を閉じ、涼やかな風に向かって、短く心地よい息を吐き出した。
……かつて、空っぽの器でしかなかった私が今、目の前に広がる景色を、心から『美しい』と感じることができている。
それは間違いなく、私をただの母親としてここに在らせてくれる――温かな『光』が在るからだろう。
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