繋いだ掌
て、てぇてぇ……っ!
市内の動物園。雪が残る園内には、家族連れやカップルの楽しげな声が響いていた。
つい先程まで北国の寒さに身震いしていた二人だが、ゲートをくぐった瞬間、もはやその冷たさなどすっかり忘れてしまったらしい。
「わぁっ、ひまりちゃん見て! レッサーパンダ、雪の上を歩いてるよ! 尻尾もふもふ〜!」
「ほんとだね! 雪にはしゃいでコロコロ転がるレッサーパンダ……。でも、それを目をキラキラさせて見つめるひかりちゃんの方が、私には一億倍可愛く見えるよ!」
「もう、ひまりちゃんったら大袈裟なんだから!」
アジアゾーンのガラス展示の前で、ひかりが弾むような声を上げ、ひまりが息も絶え絶えの熱量でその愛らしさを絶賛している。
無邪気に笑い合う二人の後ろ姿を、少し離れた場所から誠と早苗が「相変わらずだねぇ」と目を細めて見守っていた。
雪景色の中で愛嬌を振りまく小さな獣たちを堪能した私たちは、順路に沿って歩みを進める。
やがて辿り着いた『エゾヒグマ館』の巨大なガラス張りの前で、ひかりが「うわぁ……っ」と小さく息を呑んだ。
のっしのっしと雪の上を歩く、漆黒の巨体。
分厚い毛皮に覆われた背中と、丸太のような太い腕。ガラス越しでさえ伝わってくるその圧倒的な質量に、ひかりは少し怯えたように私のコートの裾をきゅっと握った。
「……お母さん。あれが、さっき車で言ってた……羆?」
「そうだよ。……遥か昔からこの大地を支配する、森の王さ」
私が静かに頷くと、ひかりがまじまじと巨体を見つめて呟いた。
「本州の熊とは、全然違うんだね……」
「ああ。立ち上がれば優に二メートルを超え、その腕の一振りで人間の骨など容易く砕き、その牙は人の柔肌など容易に食い破る。……羆は生きたまま相手を食らうからね、襲われれば地獄さ。……かつて山の中でアレと鉢合わせた時は、周囲の空気そのものが凍りついたように感じたものだよ」
「ど、どうやって切り抜けたんですか!?」
私の言葉に、ひまりが息を呑んで尋ねてくる。
「飢えと敵意を抜き取って、やり過ごした。それがなければ基本的に野生の獣が人間を襲うことはないからね」
「なるほど……流石です、ハルさん……!」
私が淡々と答えると、ひまりは感嘆の声を漏らし、深く頷いた。
「そんな怖い動物が、今もどこかにいるんだね……」
「ああ。境界線を越えれば、そこは未だ彼らの世界さ。……だが、こうして、たった一枚のガラスを隔て、安全にその姿を観察でき、それを子供たちが目を輝かせて見ているのだから、隔世の感があるね」
決して消え去ったわけではない圧倒的な『暴力』と、それを管理し、平和な展示へと変えた人間の営み。その危うい均衡の上に成り立つ変化を感じながら、私はそっと目を細めた。
「あ、ひかりちゃん、オオカミゾーンだよ!」
ひまりの弾んだ声に促され、私たちは隣のエリアへと足を向ける。
雪の上を凛々しく歩き回る姿を見つめながら、ひかりが問いかけてきた。
「……動物園には狼いるの?」
「ああ。ここにいるのはシンリンオオカミという他所の国の狼だよ。さっきも言ったように、この国の狼は絶滅してしまったからね」
「そっかぁ、何だか悲しいねぇ」
ひかりが少しだけ眉を下げた。その純粋な憐憫を受け、私の唇からは乾いた言葉が零れる。
「個であろうと種であろうと、いずれ終わりは等しく訪れるさ。そこになにかが介在しようと、それもまた時の流れなのだろう」
そう……あらゆるものはいずれ、朽ち果てる。
しかし、老いることのないこの身は……いつかこの和からも離れ、再び彷徨うのだろうか。
止まることのない時間の濁流に、意識が飲み込まれそうになった、その時だった。
「……っ!」
いつの間にか正面に回っていたひかりが、私の両頬を優しく摘んでいた。
「お母さん、いま寂しそうな顔してた! せっかく楽しむために来たんだから、ダメだよ!」
……寂しい、か。
悠久を生きる中で、いつしか『感情』すら無くし、ただひたすらに時を重ねた。
だが、ひまりと出会い、ひかりが生まれ、『家族』を得たことで、無くしたと思っていた感情は……まだ胸のなかにあったのだと、皆が教えてくれた。
「そうだね、すまなかった。……ありがとう、ひかり」
頬に触れる小さな手の温もりが、冷えかけた心を溶かしていく。
私は、自分を今に繋ぎ止めてくれる大切な存在を、抱きしめるように見つめ返した。
「さぁ、次はあっちだよ! ホッキョクグマだって!」
再び元気よく走り出したひかりの後ろ姿を、ひまりが「ああっ、気をつけて!」と追いかけていく。
ホッキョクグマ館の水中トンネルでは、巨大な白いクマが頭上をダイナミックに泳ぎ回る姿に、ひかりは「空飛んでるみたい!」と大はしゃぎだった。
その様子を微笑ましく見守っていたひまりは、今度は期待に満ちた熱い眼差しを私へと向けてきた。
「ハルさん、ホッキョクグマに関するエピソードは……!」
「……さしもの私も、北極には行ったことがないよ」
私が呆れたように、けれど可笑しくて小さく笑いながら返すと、ひまりは「そ、そうですよね! 愚問でした!」と慌てて頭を下げた。
一通り園内を回り終え、帰り道へと続く並木道を歩く頃には、傾きかけた太陽が雪面をオレンジ色に染め始めていた。
少し歩き疲れたのか、ひかりは私の右手にしっかりと自分の左手を絡ませ、歩幅を合わせて隣を歩いている。
「お母さんも、動物園、楽しい?」
えへへ、と満足そうに笑うその愛らしい顔に、私の口元も自然と綻ぶ。
「あぁ……私はひかりがいれば、どこでも楽しいよ」
私の答えに、ひかりは嬉しそうに「私も!」と笑い、繋いだ手にきゅっと力を込めた。
雪解けの道を歩く私たちの足音だけが、静かな夕暮れの園内に優しく響いていた。
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