プロローグ2:冷たい夜
暦の上では春を告げる、立春。
だが、その名ばかりの春とは裏腹に、雪を混じらせた夜風はひどく冷たく、未だ冬の底を這うように街を凍えさせていた。
そんな、白く沈んだ夜の闇を目的もなく、ただ彷徨う影が一つ。
己が生に標はなく、ただ他者の悲しみを引き受けるために存在するモノ。それが、『私』。
その存在は、周囲から見ればまるで幽霊のように朧気で、ひどく希薄に感じられたことだろう。
ひたすらに街の中を漂い、偶然通りかかった夜の公園。
理由があったわけではない。しかし、まるで何かの因果に引き寄せられるように、気が付けばその足は、人気のない公園へと吸い寄せられていた。
街灯の薄暗い光の下。
降りしきる雪の中、ブランコの鎖を力なく握りしめている、一人の少女がいた。
その肩や髪には白い雪が降り積もっているというのに、彼女はそれを払おうともしない。
彼女の顔は、目は、正面を向いている。しかし、その実なにも映していないかのように、そこに感情の色は読み取れない。
まるで、ただ、この冷たい雪に埋もれて、世界から自分が消えてなくなる順番を、静かに待っているような……そんな瞳だった。
事情は分からない。ただ、その存在はひどく歪に見えた。
消え去ることを望む『死』の気配と、懸命に生き足掻く『命』の気配が、相反しながらも矛盾を生まず、そこに存在している。
空っぽだった私は、そのひどく歪な『引力』に引き寄せられるように、無意識のうちに歩み寄り、声をかけていた。
「……隣、いいかな」
私が声をかけても、彼女――ひまりは、わずかに肩を震わせただけで、何も答えなかった。
錆びた鎖が軋む音だけが、夜の公園に響く。
私は急かすことも、それ以上踏み込むこともしなかった。ただ、彼女の隣のブランコに腰を下ろし、音もなく降り積もる雪と冷たい風に吹かれながら、ただ正面を見据えていた。
――どれほどの時間が経っただろうか。
やがて、限界まで張り詰めていた彼女の糸が、ふっと緩む瞬間があった。
私の希薄で空洞のような気配が、彼女の息を詰まらせていた濃密な絶望を、ほんの少しだけ薄めたのかもしれない。
彼女はゆっくりとこちらへ顔を向け、ひび割れたような声で、ぽつりとこぼした。
「……どうして、何も言わないの?」
「君が、何も望んでいないからね」
私の淡々とした返答に、彼女は少しだけ目を丸くし……やがて、自嘲するように力なく笑った。
「変な人。……でも、少しだけ、息がしやすくなった」
彼女は小さく息を吐き、もう一度俯いて、自らの大きくなり始めた腹をそっと撫でた。
その手は震えていたが、先ほどまでの、今すぐ消えてなくなりそうな危うさはわずかに鳴りを潜めていた。
何度かの静かな言葉を交わした後。
彼女は、ふと思い出したように私を見つめた。
「貴方の……」
「ん……なんだい?」
「貴方の名前は……?」
私の名前。
その問いに、私は夜空を見上げて少しだけ記憶を遡った。
「なんだったかな……依代とか、形代とか、そういうふうに呼ばれることは多かったけど……君の好きに呼んでくれて構わないよ」
私がそう答えると、彼女はひどく困ったような、けれど今日初めて見せる、ほんの少しだけ感情を乗せた表情を浮かべた。
「……それじゃあ、呼び方が分からないよ」
彼女は少しの間、沈黙して考え込み……やがて、凍りついていた夜の空気を溶かすような、微かな声で紡いだ。
「……ハル、さん。……今日は立春だってテレビで言ってたから……だから、ハルさん」
春。ハル。
自らの名すら忘れ去った私という空っぽの器に、他者が与えてくれた、確かな輪郭。
「ハル……。うん、とても良い名前だ。ありがとう」
私が静かに微笑むと、彼女の瞳から、ふいに大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。何かが琴線に触れたのか、張り詰めていたものが決壊したのか……。
「あれ、なんだろ……っ、変だな。別に泣くような事じゃないのに……っ、ひぐ、っあ……うぅ……っ」
理由は分からない。ただ、今の彼女には、涙を流すことが必要なのだろう。私は敢えて何も語らず、ただ彼女が泣き止むのを待つ。
そうして、幾ばくかの時が過ぎた頃。
「ぐすっ……ごめんなさい、初めて会った人の前で、訳分かんないですよね……」
そう目元を真っ赤にしながら話す彼女に、私は小さく首を振りながら答える。
「……良いさ。きっと冷たい雪と、夜風のせいだろう。……ここは冷える、家まで送ろう」
それが、私と彼女の、初めての出会いだった。
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