卒業
今更ながら、苗字は常盤でございます。
――春の気配は、いつも不意に訪れる。
冷たかった風がふわりと温度を変え、窓の向こうの景色が少しずつ色づき始める。
そんな移ろう季節の真ん中で、ひかりは中学校の卒業式を迎えた。
昨夜、私が丁寧に皺を伸ばしたセーラー服。
この三年間、数え切れないほど見送ってきたその姿も、今日がいよいよ見納めとなる。
着慣れたはずのその服は、最後の日を飾るにふさわしく、彼女の真っ直ぐな背筋に凛と馴染んでいた。
「どうかな。変じゃない?」
鏡の前で振り返ったひかりが、少し照れくさそうに笑う。
「……ああ。大丈夫だよ」
私が淡々と答えると、彼女はパッと花が咲いたように目を細めた。
「えへへ、よかった。……あれ、そういえばひまりちゃんは? なんか朝からすごくバタバタしてた気はするけど」
「ああ。一人で勝手に騒がしく身支度をしていたかと思えば、いつの間にか先に出て行ったよ。先に行って校門の前を陣取っておくそうだ」
「あはは、ひまりちゃんらしいなぁ。……じゃあ私、友達と待ち合わせしてるから、先に行くね! お母さんも絶対遅れないでよ!」
「ああ。気をつけて行きなさい」
「うんっ!」
元気な返事と共に、ひかりが小走りで玄関を飛び出していく。
パタン、と閉まったドアの向こうへ遠ざかっていく軽い足音を聞いて、昨夜感じた一抹の寂しさが蘇った。
十五年。
人間にとっては、ひとつの命が確かな形を持って歩み出すのに十分な時間。……だが、時の止まった私にとっては、刹那のようにも感じられる歳月だ。
彼女の時は決して止まらず、こうして私の手をすり抜けて、どんどん先へと進んでいく。
「……やれやれ、らしくないな。……行こう、時間だ」
そう言いながら、鞄を手にして玄関へ向かう。ドアを開けると、少し冷たく、でも、どこか優しい風が通り抜けた。
「……ああ、いい風だ」
そう独りごちたあと、愛しい娘の通った道程を、私もまた歩み始めた。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼
厳かな空気に包まれた体育館。
受付で指定された保護者席のパイプ椅子に並んで座っているのは、私とひまりだ。
ひまりは式が始まる前からすでに限界を迎え、私が渡したハンカチを両手で握りしめ、ずっと声を殺して泣き続けている。
やがて、静寂に包まれた体育館に、担任の声が響いた。
「――常盤、ひかり」
「はい」
凛とした、真っ直ぐな返事。
壇上に上がり、校長から証書を受け取るその小さな背中を見つめる。
十五年前の、あの壮絶な夜。
隣で泣きじゃくるひまりの運命を引き受け、私がこの決して老いることのない身体で産み落とした命。
あの夜、私の腕の中で震えていた小さな泣き声が、今はこんなにも堂々と、自分自身の足で立っている。
悠久の時を生きる私にとって、十五年という歳月など、本来はほんのわずかな瞬きに過ぎない。
ましてや、彼女がこの制服に袖を通していた三年という月日は、呼吸を一つするほどの短さだ。
それなのに。
そのほんの刹那の間に、私はどれだけのものを受け取ったのだろう。
無彩色だった私の永遠に、どれほど鮮やかな色を。
静寂だけが支配していた日々に、どれほど愛おしい喧騒を。
空っぽだった私の胸に、どれほど狂おしいほどの感情を、君は与えてくれたのだろうか。
ぽつり、と。
視界が不意に滲み、冷たい私の頬を、ひどく温かい雫が伝い落ちた。
自分でも驚くほどの、静かな、本当に静かな涙だった。
その時、私の肩を温かい腕がそっと包み込んだ。
隣を見ると、誰よりも号泣し、いつもならけたたましく騒ぎ立てるはずのひまりが、今は何も言わず、ただ静かに微笑みながら私の肩を優しく抱き寄せていた。
いつもの私とひまりの立場が逆転したかのような、静かな抱擁。
彼女には、痛いほど分かっているのだろう。私が今流したこの一滴の涙の重さが。
私は静かに涙を拭い、ひまりの手のぬくもりを肩に感じながら、壇上の娘を見据える。
血を分けた彼女と、命を分けた私。二人の母親の祈りが交差する中、ひかりは誇らしげに前を向いて歩き出した。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼
式が終わり、柔らかな春風が吹き抜ける校庭。
友人たちと別れを惜しむひかりの元へ、ひまりが巨大な花束を抱えて突撃していった。
「ひかりちゃああああああんっ!! 卒業、おめでとおおおおおおおっ!!」
「うわっ!? ひ、ひまりちゃん!」
「ウワァァァン! あんなに小さかったひかりちゃんが、もうこんなに立派になってぇぇ……ッ!」
泣き笑いの表情でひまりを受け止めるひかり。
私は、体育館での涙など微塵も感じさせない何でもない顔を作って歩み寄り、ひまりの首根っこを軽く掴んで引き剥がした。
「……ひまり。制服が汚れるだろう。離れなさい」
「ハルさぁぁぁん! だってぇぇ!」
私にしがみつこうとするひまりを片手で制し、私はひかりに向き直る。
ひかりは手に持った証書の筒を胸に抱え、私を見上げた。
「……おめでとう、ひかり。立派だったよ」
「えへへ……ありがとう、お母さん。ひまりちゃんも、朝早くから準備して来てくれてありがとう。……二人とも、いつも見守っててくれて、本当にありがとうね」
ふにゃりとしたあの無垢な笑顔が、春の光の中で咲きこぼれる。
「……」
私は静かに目を細め、春風に乱れた彼女の襟元を直そうと手を伸ばした。
ふと、自分の指先が視界に入った。
透き通るように白く、十五年前のあの日から何一つ変わらない、時が止まったままの私の手。
そしてその向こうにある、見違えるほど大きく成長した娘の姿。
過去と現在が入り混じり、少しだけ指先が躊躇った、その時だった。
ひかりが両手で、私のその手をそっと包み込んだ。
「……お母さんの手、あったかくて大好きだよ」
彼女のてのひらから、確かな熱が伝わってくる。
永遠に変わらない私と、変わりゆく君。その残酷な対比すらも溶かしてしまうような、温かく、優しい熱。
二人の母親の祈りに見守られ、光の中を新しく歩み出す娘の背中を、私はただ静かに、いつまでも見つめていた。
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