遅く起きた朝は
――受験という重圧から解放された、最初の週末。
時計の針が、午前十時を少し回ったところだ。
静かなリビングには、紅茶の芳醇な香りと、本をめくる微かな音だけが落ちていた。
中学三年生になってからのこの一年間、休日は朝からひかりがダイニングテーブルに参考書を広げ、カリカリとシャープペンシルを走らせる音が響いていた。
だが、すべての試験日程から解放された今日、その音はない。
特段朝に強いというわけではないが、夜更かしが苦手なひかりは基本的に早く寝るため、いつもならとっくに顔を出している時間だ。
休日とはいえ、これほどまでに長く眠り続けているのは、張り詰めていた緊張の糸が切れ、一気に反動が押し寄せている証拠だろう。
あの小さな肩に背負っていた重圧は、私が思う以上に大きかったようだ。
本に落としていた視線を上げ、ふぅ、と小さく息を吐いた時。
二階から、スリッパを擦る気だるげな足音が聞こえてきた。
「……おはよぉ、お母さん」
パジャマ姿のまま、頭に立派な寝癖を咲かせたひかりが、目をこすりながらリビングに姿を現す。
そして、ふにゃりとした気の抜けた笑顔を見せたかと思うと、私の隣へ歩み寄り、そのままぐにゃりと全身の体重を預けるように抱きついてきた。
「おはよう。……よく眠れたかい?」
「うん……。泥みたいに寝てたぁ」
十五年前のあの壮絶な夜を経て、私がこの世界で得た確かな熱。その愛おしい重みが、私の腕の中にすっぽりと収まっている。
私の服をぎゅっと握りしめるその手からは、彼女の安堵がひしひしと伝わってきた。
私は本から目を離し、何も言わずにその無防備な甘えを受け入れる。
彼女の気が済むまで、ただ静かに背中を撫でてやった。
やがて、存分に私から『成分』をチャージし終えたらしいひかりが、ふと顔を上げた。
「……あれ? 今日はお母さん、何も言わないんだね」
「今日くらいは、ね。ひかりがそれだけ頑張ったという事さ」
「えへへ……。やった」
ひかりは嬉しそうにもう一度だけ私の胸元に顔をすり寄ると、ゆっくりと体を離し、向かいの席に座った。
「朝起きて『勉強しなきゃ』って思わないのが、すごく変な感じ……」
憑き物が落ちたような、けれど急に目的を失ってぽっかりと穴が空いてしまったような、試験直後の虚脱状態だろう。
「無理もない。長かったからね。……少し遅いけれど、朝食にしようか。ひかりの好きなフレンチトーストを仕込んでおいた。今から焼こう」
「ほんと!? 食べる!」
食べ物の名前を出した途端、ひかりの頭にピンと犬の耳が生えたように見えた。
私が席を立ち、エプロンを身に着けてキッチンでフライパンに火を入れようとした、その時だった。
「ハルさーん! ひかりちゃーん! 突撃、お疲れ様ケーキのお届けですよーっ!」
玄関から、ひまりの溌剌とした声が響き渡る。
実家とハルの家。最早どちらがひまりの家かも分からぬほど入り浸るひまりは、当然のようにハルの家の玄関を開けて入ってくる。
「あ、ひまりちゃんおはよー!」
「ひかりちゃん、改めてお疲れ様! ほら見て、駅前のケーキ屋さんの限定イチゴタルト! これからお茶にしませんか!?」
両手に大きなケーキ箱を掲げ、ひまりが満面の笑みでリビングに突入してくる。
だが、キッチンに立つ私の姿を認めた瞬間、彼女の目はケーキ箱よりも輝きを増した。
「はっ……! 休日の朝、エプロン姿でフライパンを握るハルさん……っ! 少しだけ気怠げな雰囲気が色気を限界突破させていて、お、おっふ……鼻血が……っ!!」
「……君は、相変わらず騒がしいね」
私が小さく息を吐いていると、ひかりが「ひまりちゃんは相変わらずだねぁ」と笑いながら、テーブルの上の箱から手際よくティシュを抜き取った。
「はい、ティシュ。鼻押さえて座っててね。お皿準備するから」
「ありがとうひかりちゃんっ! 大人しく止血して待ってます!」
ひかりから受け取ったティシュを鼻に当てたままビシッと敬礼し、ダイニングテーブルに座るひまり。
私は小さく首を横に振りながら、コンロの火を調整する。
「タルトに合わせる飲み物はどうする? 私は先ほどまで紅茶を飲んでいたから、気分を変えてコーヒーを淹れようと思うが」
「あ、私緑茶がいいな!」
「私は紅茶でお願いしますっ!」
ひかりが食器棚からお皿を出しながら答え、ひまりが鼻を押さえたまま元気よく片手を挙げる。
「……緑茶に紅茶にコーヒーか。随分と統一感のないことだ」
「いいのいいの! 好きなもの合わせるのが一番美味しいんだよ」
静かだったリビングが、あっという間にいつもの喧騒に包まれる。
熱々のフレンチトーストと、ひまりが買ってきたイチゴタルト。
それぞれの前に置かれた緑茶と紅茶、そして淹れたてのコーヒー。
それらをテーブルに並べ、三人で朝食を兼ねたお茶会を始める。
「美味しいーっ! お母さんのフレンチトースト、世界一好き!」
「うんうん、分かります! ハルさんの手料理には、魂を浄化するマイナスイオンが含まれてますからね!」
「……そんな特殊な能力はないよ」
淡々と返しつつ、私はひまりが買ってきたイチゴタルトへフォークを入れる。
サクッとした軽快な音と共に切り分けられたそれを口に運ぶと、みずみずしい苺の酸味と、上品な甘さが静かに広がっていった。
「……うん。これは美味しいね」
「でしょう!? ハルさんにそう言ってもらえると、朝から並んで買ってきた甲斐がありましたっ!」
「ああ。朝早くからわざわざありがとう、ひまり」
私が静かに礼を告げると、ひまりは「えへへ」と少し照れくさそうに笑った。
頬を緩ませるひかりと、嬉しそうに胸を張るひまり。
私は温かいコーヒーを啜りながら、その光景を眺める。
「でもさ」
タルトを口に運びながら、ひかりがふと窓の外を見た。
「勉強しなくてよくて、卒業式までまだ日にちがあって……急に時間ができちゃって、何をしていいか分かんないや」
「それは贅沢な悩みですねぇ。まあ、今はゆっくり休むのが一番のお仕事ですよ」
ひまりの言葉に、私も静かに頷く。
「ああ。焦る必要はない。何もせず、ただのんびりと過ごす『何もない日』を満喫しなさい。……君が頑張ってきた、そのご褒美だ」
「何もない日、か……」
ひかりは嬉しそうに目を細め、フレンチトーストを口いっぱいに頬張った。
卒業と、その先に待つ新しい春。
そこへ向かうための、穏やかな、空白の時間。
春の陽気が差し込むリビングで、私たちは他愛のない時間をただ静かに溶かしていった。
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