がんばれ
吐く息が白く染まる、まだ冷たい冬の終わり。
静まり返った早朝のキッチンに、小気味よい包丁の音と、卵焼き器で油が微かに爆ぜる音が響いている。
カウンターに並べられたのは、二つの弁当箱。
十五年で培われた完璧な手際は、どれほど特別な日であっても決して揺るがない。栄養バランス、彩り、そして冷めても味が落ちない工夫。すべてが計算し尽くされた『いつもの味』を、ハルは淡々とした動作で四角い箱の中へと収めていく。
「よし……完璧だ」
弁当の出来栄えに満足してハルが頷いたのと同時に、カチャリとドアが開いた。
「……ハ、ハルさん、おはようございます……っ」
ぎこちない足取りでリビングに入ってきたのは、ひまりである。
いつもよりカッチリとしたスーツ姿の彼女は、なぜか顔面を蒼白にさせ、ひどく挙動不審に目を泳がせている。
そのひまりの後ろを、まるで鴨の親子のように続いたひかりが、憂鬱な顔をして中に入ってきた。
「お母さん、ひまりちゃん、おはよう……」
「ああ、二人ともおはよう」
静かに挨拶を返し、ハルは微かに目を細める。
リビングに姿を現したひかりは、いつものパジャマ姿ではなく既に中学校の制服に身を包んでいた。
昨夜はあまり眠れなかったのか、あるいは緊張で早くに目が覚めてしまったのか……。どちらにせよ、ハルはその変化から、娘の重圧を静かに読み取る。
だがそれも仕方あるまい。今日はいよいよ、ひかりの志望校の入学試験当日である。
「ひ、ひかりちゃん! 保健室のベッドは完璧にメイキングしてあります! 室温も湿度もベストな状態に調整済みです! 万が一お腹が痛くなっても、熱が出ても、即座に私が最高のケアを……っ!」
「……ひまり。朝から縁起でもないことを言うんじゃないよ。それに、受験生本人よりも君の方が緊張してどうするんだい」
勇み足で捲し立てるひまりを淡々と窘めながら、ハルは色違いの弁当包みを二人の前に置いた。
「だ、だってぇ……っ。ひかりちゃんの晴れ舞台を、同じ校舎にいながら壁越しに祈るしかできないなんて……っ。私、救護の巡回と称してひかりちゃんの教室を覗きに行ってしまいそうで……っ」
「不審者として摘み出されたくなければ、大人しく保健室で待機していることだね」
ハルは小さく息をつきながら、手早く朝食の準備を整えていく。
「それに、ひかりはちゃんとやれるさ。……ほら、本番前に制服を汚したら大変だ、これを」
そう言って、ハルはすっと大判のタオルを手渡した。
「ありがとう、お母さん。うん……大丈夫。いっぱい勉強したし、面接の練習もしたから」
受け取ったタオルを前掛けのように広げるひかり。口では大丈夫と言いながらも、その表情にはどこか不安の色を隠しきれていない。
温かい味噌汁を一口飲み、ふう、と小さく息を吐くが心ここにあらずといった様子だ。
そんな娘の僅かな強がりを見透かすように、ハルは静かな眼差しでその内心の揺らぎを読み取っていた。
元来、真面目でひたむきな気質のひかりだ。日々のたゆまぬ努力もあり、学力的な問題はとうにクリアしている。懸念があるとすれば、やはり明日の面接の方だろう。であれば、後は心持ちひとつのはずだ。
「……ならば、どっしりと構えていなさい」
「え?」
「君が積み重ねてきた努力は、決して君を裏切らない。ただ胸を張って、いつも通りにやってくればいいんだ」
「……うんっ。そうだね」
ハルの静かで力強い言葉に、ひかりの顔にパッと明るい色が戻る。
「そうです! ハルさんの言う通り、ひかりちゃんは無敵です! そして私も、保健室の女神としてどっしりと構えて——」
「君はまず、その落ち着きのなさをどうにかしなさい」
「ああっ、手厳しいっ!」
――賑やかで、けれどどこかそわそわとした朝食の時間はあっという間に過ぎ去り、いよいよその時を迎える。
弁当を受け取った二人が玄関へと向かい、靴を履き身支度を整える。
ハルはその様子を静かに見守りながら、自らも廊下を通り、玄関口まで歩みを進めた。
「……いってきます」
鞄を両手で強く握り締め、閉ざされた扉を前にして小さく深呼吸をしたひかり。
その少しだけ強張った背中に向けて、ハルは音もなく歩み寄ると、自身の細い腕を回し、後ろからギュッと抱きしめた。
「あっ……、お、お母、さん……?」
驚いたように肩を揺らしたひかりを、ただ無言で、強く、腕の中に包み込む。
数秒の後。ハルは静かに腕を解き、振り返ったひかりの目を真っ直ぐに見つめ返す。
「頑張っておいで」
いつもと変わらない、平坦で静かな声。
「……うんっ!」
ひかりの顔から、不安の影が完全に拭い去られた。
この日一番の明るい笑顔が、そこに咲く。
その光景を隣で、この世で最も神秘的な光景を目撃したかのように拝み、見守っていたひまりだが、ハルの視線に気づき、慌てて正気を取り戻して扉を開けた。
刹那、冬の終わりの冷たく澄んだ空気が、勢いよく玄関へと流れ込んでくる。
「……行ってきます、お母さん!」
「行って参ります、ハルさん!」
冬の冷気の中へ、並んで歩み出した二人の背中を、ハルは静かに見送った。
パタン、と静かに扉が閉まり、リビングに再び静寂が降りる。
ハルは閉じられた扉を数秒だけ見つめた後、小さく息を吐き、静かにキッチンへと戻っていった。
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