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悪徳サブスクリプションと天然令嬢〜月額10万円の架空コンシェルジュ、過労死寸前〜  作者: My Pace News
第1章「月額10万円のカモと架空コンシェルジュ」

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第9話「深淵の怪物と、無敵の陽だまり」

「――見事な身のこなしと、鮮やかな害虫駆除だ。君、ただの付き人ではないね?」


その重厚なコントラバスのような声が背後から耳を打った瞬間、黒瀬巧の周囲から、一切の「物理的な音」が完全に消え失せた。

いや、実際には音が消えたわけではない。フロアの中央では燕尾服のオーケストラが優雅なウィンナ・ワルツを奏で続け、シャンパングラスが触れ合う軽やかな音も、人々のざわめきも続いているはずだ。しかし、背後に立つその老紳士が発した声の響きがあまりにも絶対的で、あまりにも濃密な「死の気配」を孕んでいたため、黒瀬の脳の防衛本能が、他のすべての聴覚情報を強制的にシャットアウトしてしまったのだ。


三百万の特注タキシードの下で、全身の毛穴が粟立ち、心臓が肋骨を内側から叩き割らんばかりの早鐘を打つ。

黒瀬はゆっくりと、まるで油の切れた機械仕掛けの精巧な人形のように、踵を返して背後を振り返った。


そこに立っていたのは、白髪を一切の隙もなくオールバックに撫で付けた、初老の男だった。

仕立ての良さなどという陳腐な言葉では到底表現できない、まるでヨーロッパの王族が纏う正装のような、深い漆黒のスーツ。右手に握られた、鈍い光を放つ重厚な黒檀の杖。

そして何よりも恐ろしいのは、その男の「双眸」であった。


底なしの深淵、あるいは光すら吸い込むブラックホールを直接覗き込んでいるかのような、一切の人間的な感情を排した暗く濁った瞳。幾千、幾万という人間の人生や企業の命運を盤上の駒として弄び、不要になれば指先一つで容赦なく切り捨ててきた「絶対的な捕食者」だけが持つ、圧倒的な眼光であった。


周囲の空気が、物理的な温度を伴って凍りついている。

先ほどまでふんぞり返って偉そうに談笑していた大手メガバンクの現役頭取も、警察権力の中枢にいる警視監も、国を動かす与党の重鎮たちも。この老紳士が足を踏み入れた半径五メートルの空間からは、まるで海を割るモーゼの十戒のようにサッと無言で道を空け、息を潜めて平伏しているではないか。


『た、巧……逃げろ。今すぐ、理由なんてどうでもいいから、花澄お嬢様を置いてでもそこから走って逃げろ……!』


右耳に深く押し込んだ極小インカムから、赤木が泣き出しそうな、ひきつけを起こしたような裏返った声で絶叫した。雑居ビルにいるはずの彼の、歯の根が合わずにガチガチと鳴る音までが鮮明に聞こえてくる。


『さっきも言っただろ、そいつは東条重工の『東条会長』だ! 表の経済界のトップに君臨しているだけじゃない、裏社会のシノギから政界の闇金まで、日本のあらゆる暗部を完全に掌握している、正真正銘のフィクサーだ! お前みたいな、末端でコソコソやってる架空サブスクの詐欺師が、一秒でも目を合わせちゃいけない相手なんだよ! 過去にお前が騙してきたどのカモよりも、何万倍もヤバいバケモノだ!!』


(……わかっている。言われなくても、俺の細胞の隅々が、本能レベルで最大の警鐘を鳴らし続けている)


黒瀬の背中を、滝のような冷や汗が音を立てて流れ落ちていく。

逃げる? そんなことは物理的に不可能だ。この場で一歩でも後退すれば、あるいは視線を逸らして動揺を見せれば、東条の張った「怪しまれる」という蜘蛛の巣に完全に捕らえられる。

そうなれば最後、東条の持つ広大かつ凶悪な情報網によって、数日後には『プレミアム・ライフ・エスコート』という架空サブスクの実態はおろか、黒瀬の過去の余罪まで全て暴かれ、文字通り東京湾の底で冷たいコンクリートの塊にされるだろう。


(……やるしかない。退路はない。俺が長年詐欺師として培ってきた、すべての神経と人心掌握術、そして極限のハッタリを総動員して、この怪物を欺き通す……!)


黒瀬は奥歯が砕けそうになるほど強く噛み締めながらも、自らの表情筋を鋼鉄の意志で固定した。そして、微塵の動揺も感じさせない、極めて静かで洗練された所作で、東条に向かって深く、完璧な角度で一礼した。


「……お褒めにあずかり、光栄の至りに存じます。しかし、私は白鳥様のエスコートを仰せつかった、ただの専属コンシェルジュに過ぎません」


「ほう。ただのコンシェルジュ、ね」


東条は、黒瀬の言葉を鼻で笑うように、黒檀の杖を分厚い絨毯の床にコツンと一度だけ突いた。その小さな音が、大広間に響き渡る。黒瀬の耳には、それが死刑執行を告げる鐘の音のように響いた。


「白鳥グループの総帥とは、昔から幾度かビジネスという盤面を囲んだ仲だが……あいつは娘の東京での番犬に、随分と『面白い男』を雇ったものだ。君からは、高級ホテルの温室で育ったサービスマンの匂いはしない。……どちらかと言えば、血と泥に塗れた『路地裏の野良犬』の匂いがするが?」


東条の言葉は、まるで鋭く研ぎ澄まされたメスのように、黒瀬の正体の核心を正確に切り裂こうとしていた。

この男は、一目見ただけで黒瀬の完璧な身のこなしの奥に潜む「裏の人間」としての匂いを、完全に嗅ぎ取っている。小手先の誤魔化しや、マニュアル通りの慇懃無礼な態度は一切通用しない。ならば、どうする?


黒瀬はゆっくりと顔を上げた。

そして、自身の三白眼の奥に、あえて「数々の修羅場を潜り抜けてきた冷酷な光」を意図的に宿し、日本のフィクサーを真っ直ぐに見返した。


「……お言葉ですが、閣下。美しく咲き誇る一輪の純白の百合を、有象無象の泥や害虫から守り抜くためには、温室育ちの従順なだけの番犬では役不足というものです。闇の深さを知る者こそが、闇から光を最も確実に守護できる。……そうはお考えになりませんか?」


あえて自身の「裏の匂い」を否定しない。

その匂いを逆手に取り、「白鳥家が意図して莫大な金で雇い入れた、裏社会の掃除も厭わない特殊な護衛エージェントである」と錯覚させるための、命懸けの高度な心理的ブラフ。

この瞬間、黒瀬の脳内では数千パターンのシミュレーションが超高速で演算され、脳の血管が焼き切れそうになっていた。東条がどう出るか。これで「生意気な若造だ」と逆鱗に触れれば、その瞬間に黒瀬の人生は終わる。


東条の濁った瞳が、スッと細められた。

重苦しい、あまりにも重苦しい沈黙が、一秒、二秒、三秒と続く。周囲のVIPたちは、誰一人気を吐くことすらできず、ただこの異様な対峙を青ざめた顔で見守っている。


「……くっ」


不意に、東条の喉の奥から、地鳴りのような低い笑い声が漏れた。


「……なるほど。確かにその通りだ。闇を知らぬ無知な犬に、闇は祓えん。君のような優秀で、そして底知れない『得体の知れない番犬』が常に隣で牙を研いでいるのなら、白鳥の親父も枕を高くして眠れるというものだろう」


東条から発せられていた、肌を刺すような殺気が、ほんのわずかに和らいだ。

(……凌いだ! なんとか、ただのチンピラ詐欺師ではなく『腕利きの裏エージェント』という架空の設定で押し通せた!)

黒瀬が肺の奥で、気づかれないように深い安堵の息を吐き出そうとした、まさにその絶対的な均衡状態の只中であった。


「あの、東条さん?」


一切の空気を読まない、春の陽だまりのような、あるいは天上の天使が鳴らすような銀の鈴の音が、その凍りついた空間に無慈悲にカットインした。

白鳥花澄である。

彼女は、日本の政財界を裏で牛耳る怪物・東条会長の真正面に、シャンパンゴールドのドレスの裾を揺らしながらトテトテと歩み寄り、純度百パーセントの、一切の疑いも恐れも知らない無垢な笑顔で、その恐ろしい顔を真っ直ぐに覗き込んだのだ。


「え……?」

周囲のVIPたちから、信じられないものを見るような、悲鳴じみた息が漏れる。

インカムの向こうでは、赤木が『終わった! 日本が終わった! 俺の人生も終わった!!』と半狂乱になってキーボードを叩き割る音が聞こえた。

黒瀬もまた、心臓が完全に、物理的に停止しかけた。「白鳥様、お下がりください!」と叫んで彼女を庇おうとしたが、極度の恐怖で声帯が完全に麻痺して動かない。


だが、花澄はそんな周囲の絶望や静寂などどこ吹く風で、小首を可愛らしく傾げて、日本の黒幕に向かってこう言い放った。


「東条さん、さっき黒瀬さんのことを『血と泥の匂いがする』って仰っていましたけど……それは違いますよ?」

「……ほう?」

東条が、自らに一切の恐怖を抱かずに話しかけてくるこの小娘に対し、興味深そうに片眉を上げる。


「黒瀬さんは、私がお願いした深夜のタワーマンションでの『クモさん退治』の時も、公園で泥だらけになって『迷子の猫ちゃん』を探してくれた時も、いつだって『とっても清潔でいい石鹸の香り』がするんです! きっと、毎日身だしなみにすっごく気をつけているんだと思います! だから、野良犬だなんて言ったら、一生懸命お仕事してくれている黒瀬さんに可哀想ですよ!」


「……………………」


静寂。

完全なる、圧倒的な、宇宙空間のような静寂が、大宴会場の一部を完全に支配した。

日本のフィクサーに対して「匂いの間違いを真っ向から指摘し」「三十万円の特殊エージェントの仕事が『虫退治』と『猫探し』であることを大声で暴露し」「可哀想だと説教をする」。


それは、世界を滅ぼす核弾頭のスイッチを、幼児が無邪気に連打するような、規格外にして致死量の天然行動であった。

黒瀬はもはや絶望すら通り越し、魂が肉体を離れかけながら「自分の葬式はどんな花がいいか」「海に沈められるならせめて暖かい季節がいいな」と、真剣に現実逃避を始めようとしていた。


しかし。


「――っははははははっ!!!」


突如として、東条会長が天を仰ぎ、腹の底から、シャンデリアのクリスタルを揺らすほどの大広間全体を震わせる豪快な大爆笑を響かせたのである。

その笑い声に、周囲のVIPたちはさらに肩を震わせて怯え、黒瀬は完全に理解の範疇を超えて目を丸くした。


「はっはっは! ひいっ、虫退治に、迷子の猫探しだと!? はははっ! この、どこからどう見ても一流の殺し屋か工作員にしか見えない、素晴らしい体躯と冷酷な目を持った番犬が……休日の公園で泥だらけになって猫を追っかけていたというのか!」

「はい! とっても一生懸命で、ハシビロコウさんの通訳までできる、最高のコンシェルジュなんですよ!」


花澄がさらに「動物園での適当通訳」という余計な情報まで誇らしげに追加すると、東条はついに杖を落としそうになるほど涙を出して笑い転げた。

ひとしきり笑い終えた後、東条は杖をつき直し、信じられないほど穏やかな、まるで目に入れても痛くない孫娘を見るような、極めて優しい目で花澄を見つめた。


「……いや、恐れ入った。白鳥の親父が、なぜ君のような無防備な娘をこんな危険な東京に一人で出したのか不思議だったが……なるほど、合点がいった。君のその『一切の淀みがない純粋さ』は、どんな権謀術数や暴力よりも強い、絶対無敵の鎧だ。私が束になってかかっても、君のその光には敵わんよ」


そして、東条は再び黒瀬へと視線を移した。

しかし、そこには先ほどの捕食者のような冷酷さは微塵もなく、どこか「とてつもない苦労人」を見るような、深い『同情』すら入り混じった奇妙な眼差しであった。


「……番犬殿。どうやら君の本当の戦場は、我々のような裏社会の人間とのヒリヒリする騙し合いなどではなく、このお嬢様の規格外の『日常』にあるようだな。……月額いくらで雇われているのかは知らんが、せいぜい心労で過労死しないように気をつけることだ」

「…………肝に銘じます」


黒瀬は、額に大量に浮かんだ冷や汗を拭うことすらできず、ただ深く、深く、精魂尽き果てた様子で一礼することしかできなかった。


「良い夜を。白鳥のお嬢さん、そして……不屈のコンシェルジュ殿」


東条会長は、ここ数年見せたことがないほど面白そうに口角を上げたまま、呆然とする護衛たちを引き連れて、悠然とフロアの奥へと消えていった。

彼が完全に去った後、周囲のVIPたちが一斉に、黒瀬たちに凄まじい畏怖の視線を向け始めた。

「あの冷酷無比な東条会長を大笑いさせ、説教までして一目置かれた最強の二人組」として、彼らの中で黒瀬と花澄のステータスが、バブルのように青天井で爆上がりしてしまったのである。


『……た、巧……生きてるか……? 俺、失禁しそうだったぞ……』

インカムから、魂の抜けたような、掠れた赤木の声が聞こえる。

「……ああ。だが、確実に寿命が二十年……いや、五十年は縮んだ」


「黒瀬さん! お話ししていたら、なんだかすごくお腹が空いちゃいました! あそこのイチゴのケーキ、一緒に食べに行きましょう!」


死の淵から奇跡の生還を果たし、極度の緊張から解放されて足の震えが止まらない悪徳詐欺師の右腕を、無敵の天然令嬢が満面の笑みで引っ張っていく。

月額三十万円の『ダイヤモンドVIPプラン』。

その最初のミッションは、黒瀬巧の精神と肉体を限界まで削り取りながらも、日本経済の頂点に立つ怪物すらも巻き込むという、途方もない大波乱の末に幕を下ろそうとしていた。

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