第10話「東京の夜景と、詐欺師の密かなため息」
帝国グランドホテルのメインエントランスには、数時間前に二人がこの夜会に潜入した直後とは全く異なる、異様かつ滑稽な光景が広がっていた。
「白鳥お嬢様、黒瀬様。本日はお足元の悪い中、当ホテルへお越しいただき誠にありがとうございました」
「お車の手配がすでに完了しております。どうぞ、こちらへ」
行きには厳しい顔で顔認証システムを操作し、黒瀬の偽造データを疑いの目で見ていたホテルマンたちが、今はまるでどこかの国の王族や国賓を送り出すかのような、九十度の最敬礼で二人を恭しくエスコートしている。
そればかりではない。帰路につこうとして車寄せでハイヤーを待っていた政財界のVIPたち――ほんの数時間前までは、黒瀬たちを「場違いな小娘と、そのただの付き人」として見下し、冷笑的な視線を送っていた者たち――が、わざわざ談笑を止め、二人のために絨毯の端へと下がり、恭しく道を空けていたのである。
すべては、日本の裏の支配者であり、経済界の絶対的フィクサーである『東条会長』が、この二人に対して大爆笑し、親しげに言葉を交わしたという、たった一つの事実がもたらした現象であった。
権力と金という絶対的なヒエラルキーの中で生きる彼らにとって、あの冷酷無比な東条に一目置かれたということは、黒瀬と花澄が「絶対に敵に回してはいけない、アンタッチャブルな存在」へと昇格したことを意味するのだ。
彼らの視線には、明らかな畏怖と、「あの黒瀬という男、一体何者なんだ」という強烈な探求心が入り混じっていた。
(……胃が痛い。穴が空きそうだ。これで俺の顔が、日本のトップ連中の脳内に『白鳥家の得体の知れない腕利きエージェント』として完全にインプットされてしまった……)
黒瀬巧は、表面上は三百万の特注タキシードにふさわしい、冷徹で洗練されたコンシェルジュの微笑みを完璧に浮かべながらも、内心では致死量の血の涙を流していた。
詐欺師にとって「目立つ」こと、ましてや「権力者たちの記憶に残る」ことなど、即ち社会的な死を意味するからだ。もし今後、彼らが白鳥家や黒瀬の素性を少しでも洗おうものなら、雑居ビルの四階でせっせと架空請求のダミーサイトを作っている極悪非道な実態が、白日の下に晒されてしまう。
「皆様、ごきげんよう! さようなら!」
一方の白鳥花澄は、そんな周囲の大人たちのドロドロとした思惑や、異常に歪んだ権力の力学など全く知る由もない。彼女は、純白の百合が咲き誇るような、一切の翳りのない無邪気な笑顔でVIPたちに手を振り返している。
やがて、白鳥家が手配した最高級の白いロングリムジンが、滑るように静かに車寄せに停車した。
黒瀬は完璧なエスコートの所作でドアを開け、シャンパンゴールドのドレスを纏った花澄を車内へと促し、自らも向かいの革張りシートに深く腰を下ろした。
分厚い防音ガラスのドアが重厚な音を立てて閉まり、外の喧騒が完全に遮断される。
運転席との間にもプライバシーを守るための黒いパーティションが降りており、微かにジャズが流れる広々とした豪華な車内は、完全に二人だけの密室となった。
黒瀬は右耳の奥に仕込んでいた極小インカムのスイッチに触れた。
『……巧、俺はもうダメだ。寿命の前借りをしすぎた。今日の業務はこれで上がる。お前も、二度とあんなバケモノどもの巣窟には行くなよ……』
赤木の魂が抜け切った掠れ声を聞き届け、黒瀬は「ああ、ゆっくり休め」とだけ心の中で呟き、通信を完全にオフにした。
「――はぁぁぁぁぁ…………」
リムジンが滑らかに走り出した瞬間。黒瀬はたまらず、肺の底に溜まっていたすべての澱んだ空気を吐き出すような、深く、ひどく重いため息を漏らした。
三百万のタキシードの背もたれに体を預け、息苦しかったネクタイの結び目をわずかに緩める。極度の緊張から解放された反動で、全身の筋肉が鉛のように重く、指先すら動かすのが億劫だった。
「お疲れ様です、黒瀬さん! 今日は本当にありがとうございました!」
向かいのシートで、花澄が嬉しそうに両手を合わせた。
その顔には、一切の疲労感は見えない。それどころか、夜会で最後に食べたホテル特製のイチゴのショートケーキの甘い余韻に浸っているのか、幸せそうに頬を緩めている。
「いえ……白鳥様がご満足いただけたのなら、私どもプレミアム・ライフ・エスコートとしても本望でございます。……それにしても」
黒瀬は少しだけ恨めしそうな、それでいて深い疲労を滲ませた三白眼で、目の前の規格外の令嬢を見つめた。
「白鳥様。あのような場所で、初対面の相手、それもあそこまでの大物に対して、あのようにストレートに物事をおっしゃるのは、少々危険かと存じます。もし相手の機嫌を損ねていれば、どうなっていたか……」
「えっ? そうでしょうか?」
花澄は、心底不思議そうにきょとんと小首を傾げた。
「でも、東条さん、とっても優しそうなおじいさまでしたよ? 私が黒瀬さんの本当の凄さを教えてあげたら、すごく楽しそうに笑ってくれましたし。黒瀬さんも、少しは仲良くなれたんじゃないですか?」
(あの底知れないバケモノの、一体どこが優しいおじいさんだ。一歩、いや半歩でも対応を間違えていれば、俺たちは今頃、東京湾で仲良くコンクリート詰めにされて魚の餌になっていたんだぞ……!)
喉まで出かかった凄まじい絶叫とツッコミを、黒瀬は強靭な精神力でなんとか胃の奥底へと飲み込んだ。彼女のこの「純度百パーセントの善意と無警戒さ」が、結果的に東条の毒気を完全に抜き去り、絶対絶命の危機を救ったのは紛れもない事実だからだ。ここで彼女を責めるのは筋違いである。
黒瀬が疲れ果てて窓の外に目を向けると、リムジンはちょうど東京タワーの真横を通り過ぎるところだった。
オレンジ色に暖かく輝く鉄塔の光と、大都会の無数のビル群が放つ冷たいネオンが、防音ガラス越しに宝石箱のように煌めいている。
「……綺麗ですね、東京の夜景」
花澄もまた、窓の外の光の海を見つめながら、ぽつりと呟いた。
その横顔は、先ほどまでの底抜けに明るい少女のものから、少しだけ大人びた、どこか静寂を纏った表情に変わっていた。
「私、ずっと東京に来るのが怖かったんです」
「……怖い、ですか?」
「はい。父はいつも私に『東京には、人の皮を被った恐ろしい猛獣がたくさんいる。誰も信用してはいけないし、隙を見せてはならない』って、言い聞かせていましたから。……実際、今日お会いした方々も、皆さんお洋服は立派でしたけど、なんだか目が笑っていないというか……少しだけ、息苦しさを感じていました」
黒瀬はわずかに目を見開いた。
彼女は、何も感じていない「ただの天然で無知な箱入り娘」というわけではなかったのだ。彼女なりに、あの腹黒い権力者たちが放つ打算や欲望の渦巻く夜会の中で、特有の「毒気」を肌で感じ取っていたのである。
「でもね、黒瀬さん」
花澄はゆっくりと視線を窓の外から戻し、黒瀬を真っ直ぐに見つめた。
その純粋で透き通った瞳には、東京の夜景の光が小さな星のように反射している。
「今日は、全然怖くなかったんです。だって、私がどこにいても、黒瀬さんが必ずそばにいて、完璧に守ってくれましたから」
「…………」
「私が変な人に絡まれた時も、東条さんという偉い方とお話しした時も、黒瀬さんのその大きくて頼もしい背中を見ているだけで、とっても安心できました。……黒瀬さんは、私が東京で出会った、たった一人の『本当の味方』です。これからも、ずっと私のお願いを聞いてくださいね」
そう言って花澄が向けたのは、一切の打算も、疑いも、裏の顔も持たない、ただ純粋な感謝と絶対的な信頼の微笑みだった。
黒瀬の心臓が、夜会の時の恐怖とは全く違う理由で、トクンと小さく、しかし確実に跳ねた。
詐欺師として生きてきた彼にとって、他人の「信頼」とは、金を騙し取るための単なる便利なツールであり、利用価値でしかなかった。人を信じず、他人の善意をあざ笑うことで、この冷たい世界を生き抜いてきたのだ。
しかし、目の前の少女から向けられるその真っ直ぐすぎる感情は、黒瀬の心の奥底にある、冷え切った分厚い氷を、春の陽だまりのように静かに、しかし抗いがたい熱量で溶かし始めていた。
(……バカな。何を絆されているんだ、俺は。俺は悪徳サブスクリプションの運営者で、こいつはただのカモだぞ。月額三十万の不労所得をむしり取るための、ただの都合のいい金蔓じゃないか……)
黒瀬は内心で必死に自分に言い聞かせるように、膝の上でギュッと拳を握りしめた。
このままではダメだ。この純粋すぎる光に当てられ続ければ、自分の中にある「詐欺師としての冷徹な刃」が完全に錆びついてしまう。それに、三十万の金で毎回命の危険に晒されるようなミッションをこれ以上続けさせられれば、本当に過労死か、東京湾送りが待っている。
(なんとかしなければ。絶対に、彼女の機嫌を損ねないように、そして俺たちが詐欺師だと怪しまれないように……この『ダイヤモンドVIPプラン』を、あっちから自主的に解約させる方法を考えなければ……!)
極悪非道な詐欺師・黒瀬巧は、東京の眩い夜景を背に、最大の難関となる極秘の『解約誘導ミッション』への決意を、密かに、そして固く誓うのであった。




